100年前、女学生の手紙文化を彩った「謎の画家」小林かいちとは?
石川県七尾美術館で「大正ロマンとモダンデザイン~大正イマジュリィの世界~」を鑑賞し、「小林かいち」という画家を知った。落ち着いた色使いながら華やか。和装の女性と洋風の題材が同じ画面に描かれている。100年前のデザインにもかかわらず、斬新な印象を受けた。美しい絵はがきと絵封筒に惹かれて同美術館次長・学芸員の北原洋子さんに聞いてみると、「かいちは、謎の多い画家」とのこと。近年、再評価されるまで忘れられた存在だったと知り興味津々。かいちについて知りたくなった。
2008年に京都新聞の報道をきっかけとし、小林かいちの次男・小林嘉壽さんが名乗り出たことから、「謎の画家」とされていたかいちの生涯が、少しずつ明らかになってきている。人物像と作品をたどってみたい。
本名は「小林嘉一郎(かいちろう)」という。1896年11月1日に生まれ、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)で絵を学び、1925年に結婚。大正後期から昭和初期は京都市の中心部にあった「京極さくら井屋」の絵はがき作家として絵はがきや絵封筒のデザインを手掛けた。
一方で、戦中は軍需工場で飛行機の設計図を、戦後は着物の染色図案を描いたという。3男2女に恵まれ、末子である三男が生まれたのは1951年。かいちが55歳の時である。時代の変遷に合わせて職場と描く対象を変えつつも、画業を続けた生涯だったようだ。68年12月15日に72歳で亡くなっている。
谷崎潤一郎の小説『卍』にも記述が
かいちが手掛けた絵はがきや絵封筒は当時、特に若い女性の間で人気を集めた。谷崎潤一郎の小説『卍(まんじ)』には、かいちの影響を受けた絵封筒についての記述があることからも、ヒット商品だったことが分かる。かいちの作品は、女性とともにハート・星・花・トランプ・十字架などが描かれ、クロスワードパズルや歌謡など、流行を取り入れたものが多い。北原さんは多彩な作品群を前にこう話す。
「100年経っても古めかしさを感じさせません。時には近世日本画のような“余白”を意識した構図を用いながらも、はがきや封筒の形を生かした配置で描いたデザインは、むしろ新鮮です。また、イギリス発祥のアール・ヌーヴォーや、フランス発祥のアール・デコ様式を巧みに取り入れる一方、桜色や藤色系など日本の伝統色を使い、独自の世界観を作り出したあたりは、生涯を着物の染色図案家として過ごしたかいちならではだと思います。1枚の絵はがき、絵封筒の中にも抒情的で乙女チックな物語性を感じるものがあって、小さいけれど、それぞれが立派な一つの作品となっているといえるでしょう」
驚いたのは、家族がかいちがデザインした絵はがきや絵封筒に触れていながら、作者である「小林かいち」と父親が同一人物だと気づかなかったことだ。わが子が成長するにつれ、「絵はがき作家・小林かいち」は「染色図案家・小林嘉一郎」となっていた。
『小林かいちの魅力/京都アール・デコの発見』(山田俊幸監修、清流出版)によると「嘉壽氏は幼い頃、家にあったたくさんの色つき封筒で紙飛行機を作って遊んだ記憶があると笑った。それがかいちが手がけた絵封筒だったと容易に想像はつくが、(中略)家族の中で取り立てて話題にあがることもなかったという」とある。
子どもらは「かいち」を父だと気づかず
昭和10年代後半、かいちは「絵はがき作家」としての活動から遠のいていった。その存在は少しずつ忘れ去られ、一部のアンティークのファンや絵はがきの収集家などの間でだけ知られていたという。一世を風靡した絵はがき作家は、なぜ自身のデザインした絵はがきや絵封筒を自作だとわが子に明かさなかったのか。また、子も気づかなかったのか。戦後になってから、戦前の生き方を語らない人は少なくないが、「それにしても、なぜ?」という気がする。
もう一つ不思議に思ったのは、生涯のほとんどを京都で過ごし、留学体験などなかったにもかかわらず、なぜ欧米の建築物やファッション、文化をデザインに取り入れることができたのか。この疑問については、かいち研究の第一人者である元帝塚山学院大学教授の山田俊幸さんが謎解きをしてくれた。
「1923年に関東大震災が起こり、東京が大きな被害を被ったため、一時期文化の中心が京都に移った。また、今まで閉ざしていた海陸シベリア鉄道が開かれ、海外の情報が1か月も経たないうちに入ってくるようになった。もう1つ、満州の方から大連に行くルートがあり、日本海側から入ってきた海外の文化は、やはり最初に京都に集まってきたと。ちょうどそういう時代だったんです」
京都土産として買い求め、保管された絵はがき
絵はがきや絵封筒を販売していた「京極さくら井屋」は単なる書店ではない。「商品開発」も担っていた。学生などからの投稿によって情報を集め、それをもとに絵はがき作家へデザインを発注することもあり、学生たちはかいちに憧れ、また、かいちも学生たちの発想に刺激を受け、古都・京都を拠点として、斬新なデザインを生み出し続けることができた。
戦火や自然災害をくぐり抜け、100年を経て、これだけ多くの絵はがき・絵封筒が残っていることも謎の一つ。しかし、京極さくら井屋が土産品の店と知れば納得がいく。
女学生らは京都へ修学旅行に訪れ、京極さくら井屋で絵はがきや絵封筒を買い求めたのである。印刷技術の発達もあり、かいちが手掛けた商品は全国に散らばった。「使うのが惜しい」と、使用する分とは別に「保存用」を買い求める場合もあった。全国の女学生によって大切にされていた未使用の絵はがきや絵封筒が、色褪せることなく今、展示されているというわけだ。
昭和生まれの筆者も、100年前の女学生の気持ち、分からなくはない。今でも書店や文具店の一角にある便せん・封筒・絵はがきの売り場に行くと、ワクワクする。メールなどがなかった子どものころ、友達とレターセットを色違いで買い求め、半分ずつ交換したこともある。使い切れぬほど集めては、眺めたり、どれを使うか考えたりするのが楽しかった。
手書きの郵便物は、失われゆく文化なのかも
ちなみに、日本郵便が2018年8月末に公開したデータによると、インターネットの普及などから国内で取り扱う郵便物の数は、ピークだった2001年度の262億通から、17年度は172億通となっている。16年間で3割以上も減った。懸賞やアンケートはがきも近年はネットで回答するケースが増え、年賀状や暑中見舞いをやめたという話もよく聞く。はがきや封筒は、どんどん使われなくなってきている。
「手書きの郵便物は、失われゆく文化なのかもしれません。だからこそ100年前に少女たちの手紙文化を彩った、かいちの作品を見ていただきたい」と北原さん。大切に集めた絵はがきや絵封筒を使う喜びや、手紙をもらったときのうれしさが伝わる作品群である。
※写真/石川県七尾美術館提供
※「大正ロマンとモダンデザイン~大正イマジュリィの世界~」は石川県七尾美術館で開催中。
https://nanao-art-museum.jp/?p=6073
※参考文献
・保科美術館ホームページ。小林かいちの作品を常設展示している。
http://www.hoshina-museum.com/
・『小林かいちの魅力/京都アール・デコの発見』(山田俊幸監修、清流出版)
・『蘇る小林かいち/都モダンの絵封筒』(生田誠・石川桂子共編、二玄社)