【能登半島地震】輪島の看護師16日ぶりの入浴 高齢者に「どこで生き、どこで死にたいか」を問う重圧
「16日ぶりで風呂に入ったら、体がびっくりして熱が出たわ」。社会福祉法人「弘和会」の訪問看護ステーション「みなぎ」で石川県輪島市内で訪問看護を担ってきた中村悦子さん(64)=輪島市上大沢町=は、能登半島地震で自宅が被害を受けたものの、休みなしで避難者の支援に当たってきた。同ステーションに併設するグループホームや「みんなの保健室わじま」のスペースを開放して被災者を受け入れ、体調を管理したり、羽咋(はくい)市以南の避難所へつないだりしてきた。地震発生から2週間をどんな思いで過ごしてきたのか。
――能登半島地震発生から2週間余りが過ぎました。お疲れのことと思います。
16日、羽咋市内にあるシェアハウスへ移動して1日を過ごし、半月ぶりに風呂に入って生き返りました。体がびっくりして熱が出ました。水洗トイレのありがたみが分かりました。輪島市内は水道管の破損で水が使用できないため、避難所では、降った雪を集めて溶かし生活用水を確保しています。地震発生以降はトイレの後、ウエットティッシュで手を拭いていたから、手を洗わずに出て行きそうになりました。
輪島市上大沢町にある自宅は大きな被害を受け、付近の道路が寸断されたために帰ることができず、そこからヘリコプターで避難した夫と会うのも半月ぶりでした。今後どうするかをじっくり話すことができました。家は住める状態ではないけれど、夫は上大沢町へ戻りたいと言っています。
――振り返って2024年1月1日、地震が発生した時のことを教えてください。
元日の午後4時ごろ、訪問看護ステーション近くの「セカンドハウス」と呼ぶ木造家屋で事務作業にあたっていました。ここは新型コロナウイルスの感染拡大時、家庭での感染を防ぐために職員が寝泊まりする場所として事業者の代表(畝和弘理事長)が提供してくれた場所です。
津波警報に車いすの人を連れて高台へ
午後4時10分、最大震度6強の揺れに見舞われた時、私を含めて3人が被災しました。もう1人は外出していて出先から避難所になった輪島中学校へ行きました。津波警報が出ていたので私達3人は高い所へ必死で逃げました。それから高台の反対側にあるケアホーム「みんなの詩(うた)」という小規模多機能施設へ行き、車いすの人を連れて高台へ逃げ、動けない人には付き添いました。
午後5時半ごろ「津波はもう大丈夫だ」という情報が入ったので、高台へ逃げた高齢者をグループホーム「海と空」に移動させました。この場所はショートステイ施設や「みんなの保健室わじま」の相談支援業務を担う広いスペースを併設しており、避難してくる人であふれ、地震発生から1週間は多い時で60人以上が寝食をともにしました。
――職場が避難所になったことで、中村さんは避難者の対応に追われることになりました。
私が勤める訪問看護ステーションの利用者は、ほとんどが「弘和会」の事業所か近隣の小学校に避難していたので、様子を聞いて回りました。血圧や、排便コントロール、不眠などをチェックし、余震が続く中で少しでも不安を和らげるように話しかけました。精神疾患がある患者や発達障害などがある人にとって避難所での生活はストレスが多く、平常時でも集団生活は難しいため、居場所を把握して食べ物や生活必需品を届けました。
避難者は血圧が上がっている
避難者は全般的に血圧が上がっています。被災地で提供されるのはインスタントの味噌汁やカップ麺など、塩分の多い食品が多いからでしょう。余震が続きストレスが増すことでも血圧は上がりました。また、訪問看護を担当していた人の中には地震発生から10日以上経っても全く連絡がつかない人もいました。
――市立輪島病院も被災し、救急対応のみとなりました。「医療・介護従事者=被災者」という状況をどう感じていますか。
元日に一緒にいたスタッフが私に隠れて泣いていたので「大声を上げて泣いていいよ」と言ったら止まらなくなりました。看護・介護者にとっては身近ですが、自分のためには使ったことがなかったおしりふき用のウエットティッシュやおむつを初めて使いました。
ゴミがすごい量になった
実のところ、簡易トイレの作り方はよく分かっていませんでした。まず、トイレの便器をきれいにして黒いビニール袋でカバーし、そこに半透明のビニール袋を入れ、その中に尿取りパットを入れてそこに排泄します。終わったら半透明のビニール袋を取り出し、水分や臭いが漏れないようにきつく縛って封をし、新聞紙に包んで捨てています。ゴミがすごい量になりました。
排泄の問題は、避難者のQOL(生活の質)を著しく低下させています。もともとトイレに行くのに時間がかかっていた高齢女性は能登半島地震をきっかけにショックで歩けなくなりました。トイレに行けなくなり、オムツをしたら股間の部分がかぶれて皮膚がはがれ、歩くことが一層困難になり、ほとんど動けなくなって福井県内の医療機関へ運ばれていきました。
――厳冬のこの時期、避難所での高齢者の健康管理は、命に関わります。
避難所生活が長くなるにつれ、運動する機会が減って、フレイル(健康な状態と要介護状態の中間に位置し、身体的機能や認知機能の低下が見られる状態)やサルコペニア(筋肉量が減少し、筋力や身体機能が低下している状態)になる高齢者が増えるので、転倒しないように注意しています。県外からリハビリを担当するチームが来て、マッサージやラジオ体操の指導などをしていてくれたことはありがたかったです。うちの職員も避難所生活にもかかわらず、頑張って通勤してくれています。
モバイルファーマシーが稼働
着の身着のままで避難してきて、常用している薬が切れた場合は「お薬手帳」を見て薬を出してもらうこともあります。電気の復旧の目処も立っていないので、病院に電話をかけてもつながらず、ファクスも通じません。地元の医師やDMAT(災害派遣医療チーム)の医師に手書きの処方箋を出してもらったり、これまで関わってきた医療者とのネットワークで個人携帯によって状況を説明したりするなどして切り抜けてきました。県外の薬剤師会によるモバイルファーマシー(災害対策医薬品供給車両)が輪島市に入って稼働しています。
――「災害関連死」を防ぐために自治体は2次避難を進めています。順調ですか?
輪島市内で被災した市立輪島病院の入院患者や高齢者施設の入所者、在宅療養者も羽咋市以南の施設へ、医療依存度が高い人は金沢市内の病院へ搬送しています。一般の方も1.5次避難所を経て金沢市内のホテルなどへ2次避難していきました。輪島市内の古い高齢者施設は、ほとんど全半壊の状態で、再建は難しく過疎化に拍車が掛かるのは必至でしょう。
県内外の安全な場所に親族がおり、そこに行けば安心した生活を送れるならば「いったん、そこに行ってほしい」と言っています。しかし、このような話をすると、「私を輪島から追い出すのか」と怒り出す高齢者もいました。行くあてのない高齢者が、どこで最期を迎えるのかと考えると泣けてきます。
今の過酷な状況で高齢者に「これから、どこで生きていくか。どこで死にたいか」を問いかけ、厳しい状況で判断を求める役割を担うことに、重圧と責任を感じています。極限の「人生会議(アドバンス・ケア・ プランニング:Advance Care Planning)」です。輪島市内のライフライン復旧の目処は立たず、「ひとまず逃げよう」という言葉の「ひとまず」に説得力はありません。「生活できないから出て行って」と言われても、先が見えない。だからこそ、高齢者もかたくなに遠方への避難を渋っているのだと思います。
――自身の家族は被災後、どうしていますか。
夫から自宅の写真が送られてきて「もう住めない。家は諦めてくれ」と言われました。岐阜県関市に住む義理の姉が義母を引き取ると言ってくれたので8日にヘリで救出され、夫とともに金沢市内まで送り届けられて翌日、義母は岐阜へ向かいました。
軽度の情動的刺激で笑ったり、泣いたり
余震が続き、家族と連絡も十分に取れない中、6日に「上大沢町の人は全員亡くなった」という情報が入ってきたことがありました。後に誤報だと分かりましたが動揺し、車の中で声を上げて泣きました。軽度の情動的刺激で笑ったり、泣いたりする感情失禁のような状態が続いています。
両親が住む実家は、店舗や住宅など200棟以上が焼けた輪島の朝市通りの近くにありました。火災こそ免れたものの「半壊以上全壊未満」の状態になりました。「ここは俺の家や。ここで死んでもかまわん。離れない」と2日間にわたって粘る99歳の父親を説得し、両親を勤務先と同一法人の施設へ連れてきて、羽咋市内の高齢者施設へ移るよう手配しました。一時的な避難で済むかどうかは分かりません。
――過酷な避難所生活で励ましとなったのは、どんなことでしたか。
以前からキャンナス(全国訪問ボランティアナースの会)の活動を石川県内に根付かせる活動をしてきました。東日本大震災の時もキャンナスとして気仙沼市に数回足を運ばせていただきました。2023年5月の珠洲地震で一緒に被災地へ行った富山のキャンナスが輪島市に来てくれて再会し、抱き合って泣きました。このほか、大阪、鹿児島、栃木、名古屋からも来ました。キャンナスのメンバーが来てくれたおかげで、うちのスタッフを一度、自宅へ帰すことができました。県外からの支援は本当にありがたいです。しかし、厳冬のこの時期に、この過酷な状況で「来てほしい」とは、なかなか言いにくいものです。
多くの人とつながって活動してきてよかった
また、栄養サポートチーム(Nutrition Support Team:以下NST)の活動もしてきたおかげで、県内外に幅広いネットワークができていました。キャンナスとNSTの活動でつながった医療・介護関係者から多くの情報や支援を得たので「いろんな場所に出向き、多くの人とつながって活動してきてよかった」と、しみじみ思いました。
――復旧作業や必要な支援について、どんな要望がありますか。
輪島市内は、上下水道が修繕されないと生活は元に戻りません。まず、水がないと何もできないのです。着替えても洗濯ができなければ体や生活を清潔に保てません。
支援物資の箱に書く内訳は正しい表記を
いろいろな支援物資が届くことには感謝しています。コートなどの防寒着はたくさん来ましたが、下着類はまだ少ないです。また、物資が入った段ボール箱の外側に書いてある品物と違うものが入っています。慌てていたのか、隙間を埋めるために詰め込んだのか……。届いた物資を仕分けしなくてはいけないのは二度手間になります。支援物資の内訳は、正しい表記をお願いしたいと思います。
――中村さん自身はこれからの生活についてどのように考えていますか。
毎日、(避難所に)きた人に対応するので手いっぱいの2週間でした。風呂に入ってひと息つき、夫とどうするかを考えることができたことはよかったです。先が見えず、誰も確実なことは言ってくれない今、自分の知り合いが出て行くまではここ(避難所となった職場)を動けません。
金沢市中心部のホテルに避難した人から1週間しか経っていないのに早速「輪島に帰りたい」とメールが来ました。やっぱり生まれ育ったところがいいんですね。しんどいけれど、「生き残ったのは、この経験を伝えるため」と言い聞かせて頑張ります。
中村 悦子(なかむら・えつこ) 石川県輪島市出身、金沢医科大学附属高等看護学校卒業、1981年から同病院透析センターに勤務。1989年からは市立輪島病院に勤務し、透析室、泌尿器科外来を経て1998年に同病院で訪問看護を立ち上げる。2003年に新設した在宅医療連携室、2007年に地域医療連携室、2010年に栄養サポート室へ配属。同病院においてNSTの稼働・教育や医科歯科連携体制の構築を担ってきた。2015年に同病院を退職し、一般社団法人みんなの健康サロン「海凪」を設立。現在は社会福祉法人「弘和会」が運営する訪問看護ステーション「みなぎ」及びコミュニティーナース「虹いろケア」の管理者。日本静脈経腸栄養学会などに所属。
※本記事は、医療情報サイトm3.comに掲載されたこちらの記事に追加取材し、部分転載しています(医師、医療従事者の会員サイト)。記事内の写真はすべてm3.comの許可を得て転載しています。