<朝ドラ「エール」と史実>「楽団からホーッと歓声…」音のモデルは、藤山一郎・李香蘭とオペラに出ていた
新型コロナウイルスの感染拡大で多大な影響を受けた朝ドラ「エール」も、いよいよ今月で終幕となりました。
そして今週焦点があたったのは、ヒロインの音です。オペラ「ラ・ボエーム」のオーディションに参加する話はドラマのオリジナルですが、元ネタがないわけではありません。今回はその史実を紹介しましょう。
■藤山一郎、李香蘭と並んでオペラに出演する
モデルとなった古関金子は、1954・55年、「朱金昭」「チガニの星」「トウランドット」(原文ママ)という3篇のオペラに出演しています。これは、演出家の東郷静男が台本を、NHK演芸部の近江浩一が演出を、そして古関裕而が作曲を担当した、オリジナルの放送用オペラでした。
「朱金昭」といえばフレデリック・ノートン作曲のミュージカル、「トゥーランドット」といえばプッチーニのオペラで有名ですが、古関たちは、そのような先行作品に負けないように、意気飛んで作品に取り組んだといいます。
そのため出演者も、藤山一郎や山口淑子など、たいへん豪華でした。藤山は、「長崎の鐘」などを歌った東京音楽学校(現・東京藝大の音楽学部)出身のベテラン歌手。山口は、戦前、李香蘭の名前で歌手としても活躍していた女優です。金子は、かれらに並んで、主演を張ったのです。
■「あれだけの声の人は初めてだったよ。やはり僕の奥さんだねえ」
なぜ、かならずしも実績があるとはいえない金子が、ここで活躍できたのでしょうか。
古関によれば、金子は戦後も藝大教授のノタル・ジャコモに師事して、声楽の勉強に励んでおり、その歌声を聞いた塚本嘉次郎(関屋敏子、藤原義江らのマネージャー)が「古関君、君は奥さんのためによいオペラを作曲するべきだ」と叱るほど、評価を受けていたそうです。
古関は音楽について妥協しないひとだったので、この評価は身びいきだけではないと思います。もっとも、金子はその後多忙になり、ついに声楽の勉強を止めてしまいました。結果的に、このオペラ出演が声楽家としてほとんど最後の活躍の場となりました。
■「百戦錬磨の利殖マダム」として金融メディアに登場
では、金子はなにでそんなに多忙になったのでしょうか。
こどもの世話もあったでしょう。1946年には、長男の正裕氏も生まれているからです。ただ、もうひとつ、戦後の金子には、声楽以上に熱中するものがありました。それは、株取引です。
なんと、これは金子の発言なのです。
金子は1952年、山一證券の渋谷支店で投資信託をはじめて購入(もっと早くに購入していたという説もあり)。それが、おりからの朝鮮戦争の特需もあって、大当たりしました。それをきっかけに、金子は自分でも直接株を買うようになり、なんと半年で100万円ほどの利益をあげてしまいました。小学校教員の初任給が、6000円弱だった時代の話です。
これで金子は、すっかり株取引の虜になってしまったのです。試行錯誤を重ねながら、やがて婦人投資家として成功。金融メディアにも盛んに登場して、「百戦錬磨の利殖マダム」などともてはやされるようになりました。
本人の語るところによれば、1960年代初頭には、「株式新聞」「日本経済新聞」「株式市場新聞」「暮らしと利殖」、山一の「週報」「特別ニュース報」、野村の「速達ニュース」、日興の「マネービル新聞」、大商の「投資ウィークリイ」などに目を通し、週に4回のペースで、証券会社に通っていたそうです。
■「音楽は軍需品なり」ならぬ「株は芸術なり」?
ご存知のとおり、その後の高度経済成長により、日本の株価はぐいぐい伸びていきます。さきほど上げられている株も優良なものが多いですから、金子はある程度、投資で成功していたのでしょう。
もっとも、金子も最初は株取引に抵抗感があったようです。芸術家の自負もあり、「なんとなく下俗」に感じていたのだとか。ところが、そんな気持ちは、巨額の利益の前に吹き込んでしまいました。そしてついに「株は芸術なり」と宣言するにいたるのです。
戦時中の「音楽は軍需品なり」も大概でしたが、これもけっこうな発言ですね。
このように、古関家は、夫婦そろって時代の波に乗るのがうまかったようです。ちなみに、金子が熱心に通っていた山一證券の社歌は、夫の古関が作曲しています。あの、「社員は悪くありませんから!」の会見で有名な会社です。
さすがに今回の朝ドラも、戦争は描けても、この婦人投資家の姿は生々しすぎて描けないのではないでしょうか。