300万年前にフィリピン海プレートが大方向転換:これが東日本大震災(太平洋東北沖地震)の元凶か?
日本列島の下では、太平洋プレートとフィリピン海プレートの2つのプレートが沈み込む。これらが日本海溝、南海トラフ近傍に大きな変形をもたらして超巨大地震を引き起こすのだ。また、南北に伸びる東北日本には太平洋プレートがほぼ西向き、すなわちまともに列島の下へ沈み込むので、東西方向に強い圧縮力が働く。その結果、東北地方では逆断層型の直下型地震が起きる(図)。一方でフィリピン海プレートは西南日本に対して斜めに沈み込むために、横ずれ断層が多い(図)。すなわち、東北日本と西南日本は、それぞれ太平洋プレートとフィリピン海プレートの運動によって異なるタイプの地殻変動が引き起こされているのだ。
しかし最近、東北日本の変動を引き起こす根源的な原因もフィリピン海プレートにあるのではないかとする考えが提案された。
300万年前にフィリピン海プレートの動きが激変
この考えが生まれた背景には、奥羽山地や出羽山地など、東北地方を南北に走る山地がおおよそ300万年前に急激に隆起を始めたという事実がある。これまでは、これらの山地の形成は、太平洋プレートの沈み込みに伴う圧縮のせいだと考えられてきた。しかしこのプレートは、日本列島が約1500万年前にアジア大陸から分裂して現在の位置まで移動してからは、ほぼ同じ速度と方向で運動しているのだ。だから、300万年前に急激な変動が始まったことをうまく説明できない。
この矛盾に一石を投じたのが、房総半島の地層と構造を調べてきた地質学者の高橋雅紀さん(産業技術総合研究所研究主幹)だ。彼はこの半島に分布する地層の向きが、約300万年前を境に大きく変化することに注目した。この時期以降の地層は北東-南西方向、つまり現在のフィリピン海プレートの運動方向に直交する向きに伸びている。プレート運動によって沖合に堆積した地層が押し縮められながら陸上へのし上げた結果だ。それに対して、古い地層は東西方向に並ぶ。したがってこの地層ができた当時のフィリピン海プレートはほぼ真北に向かって動いていたに違いない。つまり、フィリピン海プレートの運動方向が300万年前に、北向きから北西方向へと変化したのだ(図)。
ではなぜフィリピン海プレートは突如向きを変えたのか?図を見れば分かるように、フィリピン海プレートと太平洋プレートは東北日本の地下で重なっていた。つまりフィリピン海プレートが1500万年前以降、北向きに沈み込む過程でその東縁は太平洋プレートにぶつかっていたのだ。その結果、太平洋プレートよりずっと小さいフィリピン海プレートは西向きへ運動方向を変えざるを得なかったのである。それが起きたのが300万年前だ。
フィリピン海プレートの方向転換で日本海溝が西へ移動
フィリピン海プレートの運動方向が西向きに変わると、当然その東縁をなす「伊豆小笠原海溝」も北西へ移動する。しかしこの時に、南海トラフ・伊豆小笠原海溝・日本海溝が交わる「海溝三重会合点」は崩れることがなかった(図)。その証拠に、今でもこの点は千葉県銚子沖に存在する。つまり、フィリピン海プレート、そして伊豆小笠原海溝の西方移動に伴って、日本海溝も三重会合点を保ちながら西向きに移動して、東北日本へ近づいてきたのだ。その結果300万年前から、東北地方から日本海溝までの東西方向の幅は狭くなり続けている(図)。これが東北地方に強烈な圧縮力が働き、山地を隆起させた原因なのだ。
このような激しい東西圧縮が起きると、当然東北沖の海溝付近にも大きいひずみが蓄積し、それを解放しようとして巨大地震が繰り返し発生することになる。3・11超巨大地震は、このようなフィリピン海プレートの移動に伴う東北日本の圧縮と、太平洋プレートによる圧縮のダブル効果だった可能性が高い。もしそうであるならば、300万年より以前は、この地域では超巨大地震や直下型地震が頻発せず、比較的穏やかな地域であったに違いない。当時日本列島には人類はまだ到着していなかったが、ゾウたちは比較的平穏な日々を過ごしていたのだろう。
西南日本では「中央構造線」が発現
一方、西南日本でも、フィリピン海プレートの運動方向がほぼ真北から北西方向へ変化することで、地殻変動の様相が激変した。運動の西向き成分が西南日本を西へ引きずり始めたのだ。この巨大な力が働いたことで、力学的な弱線である地層境界が「横ずれ断層」と化したのである(図)。この断層こそが、九州から関東地方まで総延長1000キロメートルに及ぶ長大な活断層「中央構造線」である。
この大断層の出現によって、西南日本では様々な地殻変動が誘発されるようになった。このことについては次回にお話しすることにしよう。