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「どうする家康」では採用されなかった、三方ヶ原合戦で敗れた家康が与えた名字

森岡浩姓氏研究家
浜松城(筆者撮影)

17日放送の大河ドラマ「どうする家康」で、以前の回でさりげなく流していた有名な逸話が再び登場した。

その1つが、三方ヶ原合戦で徳川家康が武田信玄に完敗した際に、逃げる家康が馬上で脱糞したという逸話である。

さすがに「どうする家康」では大きく取り上げることはできなかったのかと思っていたら、17日の放送において、まだ家康を立派な領主と認めていない農民がそうした噂を流したという場面が放送され、事実ではないことが強調された。

あわせて、家康が団子を食べてお金を払わなかったという話も再登場した。

こちらは、逃げる途中で小豆餅を食べたが、武田軍が追いかけてきたためにお金を払わずに逃げ、店のばあさんが追いかけて銭を取った所が今の「銭取」という地名だという伝説である。

柴田理恵扮する店のばあさんが小石の入った団子を鳥居元忠に食べさせたシーンが再び流され、このばあさんと銭取の伝説をつなげてうまくドラマの中に取り入れて話にふくらみをもたせている。

しかし、ここでも採用されなかったのが、逃げる家康が名字を与えたという逸話である。

家康が与えた名字

三方ヶ原合戦で命からがら戦場を脱出した家康は、浜松城に戻る途中、今の静岡県浜松市中区曳馬で1軒の農家に立ち寄った。

何も食べていなかった家康は1杯のお粥をごちそうになり、人心地がついた。食べたあと、その農家にお礼をしたいのだが、戦場帰りでかつ敗走中のため何も与えられるものを持っていない。そこで「いずれお礼をする」と言い残して去っていった。

その後家康は天下を取ると、その農家を庄屋に取り立て、「小粥」という名字を与えたという。

また、同家の家紋は「丸に二引」である。珍しい家紋ではないが、小粥家の「丸に二引」は家康が粥を食べた際に茶碗の上に箸を置いた形に因むという。

因みに「小粥」という名字には別の由来も伝わっている。愛知県愛西市の「小粥」は、平安時代末期の平治の乱で敗れて落ちてきた源義朝にお粥をふるまったことに因むという。

いずれにしても、落ち武者にお粥をごちそうしたことに由来している。

現在の「小粥」の分布

現在「小粥」という名字は東海地方に多く、それ以外の地域では珍しい。

中でも浜松市中区に最も集中しており、次いで愛西市に多い。読み方は浜松市ではほぼ「おがい」と読む一方、愛西市では「おがい」と「こがゆ」に分かれる。まれに「おかゆ」と読むこともある。

実は、家康だけでなく源頼朝もいろいろな人に名字を与えたという伝説が伝わっているが、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではまったく採用されなかった。

家康は関東に転じたのちも名字に関する逸話を残しているが、それも採用されないのだろうか。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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