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【先取り「どうする家康」】松平広忠の家督継承と第一次小豆坂合戦は何をもたらしたか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまる。今回はドラマの内容を先取りすべく、松平広忠の家督継承と第一次小豆坂合戦を取り上げることにしたい。

 松平清康の死後、子の広忠が家督を継いだものの、一族の松平信定が松平宗家の家督を狙い、混乱に乗じて岡崎城を占拠した。この窮地を救ったのが、かつて謀反の噂があった家臣の阿部定吉である。

 身に危険が迫っていた広忠は、定吉に連れ出され、伊勢、遠江へと逃亡生活を余儀なくされた。遠江で広忠を救ったのが、駿河、遠江を支配していた今川義元である。

 義元は花倉の乱で玄広恵探を打ち破り、家督を継承した頃だった。天文6年(1537)、広忠は義元の軍事的な支援を受け、同時に岡崎衆の面々を味方に引き入れることに成功し、岡崎城への帰還を果たしたのである。

 以降、広忠は今川方の部将となり、三河へ侵攻する尾張の織田信秀と戦うことになる。案の定、信秀は松平氏の混乱した状況を見逃すことがなかった。

 天文9年(1540)、信秀は安祥城を攻略すると、長男の織田信広を置いたという(年次については後述)。こうした状況下で起こったのが、第一次小豆坂合戦である。

 信秀を警戒していたのは、義元も同じだった。信秀は、尾張から西三河への進出を目論んでいたからだ。一方の義元は広忠を支援しつつ、自身も東三河から西三河へ影響力を及ぼそうと考えていた。

 そこで天文11年(1542)8月(または12月)、義元は信秀を討つべく、生田原(愛知県岡崎市)に出陣したのである。今川方の総大将を務めたのは、太原雪斎だった。

 一方の信秀も安祥城から出陣し、矢作川の対岸の上和田に着陣した。こうして同年8月19日、両軍は岡崎城東南の小豆坂(愛知県岡崎市)で、激しい戦闘を繰り広げたのである。

 戦いは、織田方の「小豆坂七本槍」(織田信光、織田信房、岡田重能、佐々政次、佐々孫介、中野一安、下方貞清)の大活躍により、勝利の女神は織田方に微笑んだと伝わる。

 ところが、近年の研究によると、右の事実については誤りの可能性があると指摘されている。まず、信秀が安祥城を攻略したのは天文16年(1547)が正しいと指摘された。

 そのうえで、天文11年(1542)の第一次小豆坂合戦は虚構である可能性が高いとされた。ただし、両者の間には緊張感が絶えず、一触即発の事態にあったのは、疑いないところだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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