【大河ドラマ鎌倉殿の13人】承久の乱の緒戦は、意外にも越後国で戦われた
承久3年(1221)5月22日に鎌倉を進発した北条泰時の軍勢は、同月28日には、遠江国の天竜川辺りまで到達していました。ここに来るまでの間、連日、大雨が降っていたようです。
「洪水」のため、川を舟で無事に渡ることができるか否かと心配されましたが、案に相違して、川に水は殆どなし。皆、徒歩で川を渡ることができたとのこと(『吾妻鏡』)。幕府軍、運が良いですね。
さて、その翌日(5月29日)のことですが、いよいよ、幕府軍と官軍(後鳥羽上皇方)との戦いが起こります。承久の乱における合戦というと、都付近や西国でのみ戦われたと思われがちですが、そうではありません。
幕府軍は、部隊を3つに分けて、都に向けて進撃していました。北条泰時・時房率いる東海道方面軍。武田信光などが率いる東山道方面軍。そして、北条朝時が率いる北陸道方面軍です。
源頼朝に仕えた佐々木盛綱の子・信実は、この北陸道方面軍(4万)に属して、進軍していました。そうした時、官軍方の阿波信成の家人・酒匂八郎が、60余人でもって、越後国の願文山(新潟県新発田市)に立て篭もったとの報が入ってきます。
よって、佐々木信実が、これを討伐。酒匂の軍勢に打ち勝つのです。『吾妻鏡』は、これを「関東士(関東の武士ら)が官軍を敗る最初」と評しています。そうした意味で、この越後における戦いは、重要なものと言えるでしょう。