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阪神大賞典でオルフェーヴルはなぜ逸走しそうになったのか? 関係者が真相を語る

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
12年阪神大賞典で2着のオルフェーヴル(12番)(写真提供;報知新聞/アフロ)

3冠馬が古馬の始動戦として出走

 今週末、阪神大賞典(GⅡ)が行われる。

 3000メートルの長丁場はこの後の天皇賞(春)(GⅠ)につながる重要な一戦。それだけに歴代の勝ち馬一覧表を見ても錚々たるメンバーが名を連ねる。中でも目を引くのは2013年から15年まで3連覇したゴールドシップだ。しかし、個性派という意味ではこの芦毛の癖馬に負けていない出走馬がいた。先頭でゴールを出来なかったため勝ち馬一覧表には記されていないが、ゴールドシップと同じステイゴールドの直仔であるオルフェーヴルがそれ。12年の2着馬である。

 この黄金色の暴れん坊は前年、3冠を制すと勢いのまま有馬記念(GⅠ)も優勝。年度代表馬になる活躍を見せた。その4冠馬の古馬初戦となったのが12年の阪神大賞典。ファンは単勝1.1倍に支持して当時の最強馬の復帰戦に胸を踊らせた。

11年、菊花賞を制して3冠馬となったオルフェーヴル
11年、菊花賞を制して3冠馬となったオルフェーヴル

 管理したのは池江泰寿。主戦の池添謙一に、レース前、一つだけ注文をつけた。

 「普通の競馬をしよう」

 それまでのオルフェーヴルの競馬ぶりはというと、後方に控えて脚を温存し、最後に爆発させる形。3冠を、そしてグランプリもそういう競馬で制してきた。しかし、池江は思っていた。

 「同世代同士や、斤量面で恩恵があるレースではそれで良かったかもしれないけど、古馬になりシンボリルドルフみたいに本当に強い馬に育てようと思ったら、ああいう形ばかりではダメ。普通の競馬、すなわち好位につけて、普通に抜け出す。そんな競馬をしよう、と謙一に伝えました」

オルフェーヴルのキャップを被る当時の池江調教師
オルフェーヴルのキャップを被る当時の池江調教師

 好位付けの競馬をさせたかったのには、もう一つ大きな理由があるのだが、それは後述するとして、この策を耳にした池添の、微妙に揺れた心中を先に記そう。

 「個人的にはいつも通り折り合いを重視した競馬を、と思っていたけどリクエストがあったので好位を取りに行く競馬をさせる事にしました」

 イケイケコンビという名とは真逆に慎重を期す姿勢に、しかし競馬の神様はちょっとした悪戯をする。発表された枠順は12頭立ての12番。大外枠になったのだが、これがまた展開に影響を与える事になった。鞍上が述懐する。

 「戦前に話していた通り抑える気はなかったのですが、ペースが遅くて馬群が団子状になったため他馬の後ろに入れる事も出来ませんでした。結果、最初のコーナーで既に掛かってしまい、正面のスタンド前を走る頃には僕の腕はパンパンになるほどでした」

池添騎手とオルフェーヴル(写真はラストランとなった13年の有馬記念直後)
池添騎手とオルフェーヴル(写真はラストランとなった13年の有馬記念直後)

3コーナーでの思わぬ出来事

 そんな兆候がなかったわけではないと語るのは指揮官だ。

 「装鞍所からうるさくて自分も足を蹴られてしまいました。パドックや返し馬の雰囲気からも折り合いを欠いてしまう可能性は考えられました」

 こうして落ち始めた砂時計の砂が、完全に落ち切ったのが2周目の3コーナーだった。先頭を並走していたナムラクレセントが抑えにかかるのを待っていたように、オルフェーヴルは秘めたパワーを爆発させた。

 「外へ向かって走り出し、どうにも制御がきかなくなりました」

 池添がそう言えば、池江は次のように振り返る。

 「最初は故障したかと思ったけど、止まる気配ではなかったので、すぐにバカついていると分かりました」

 「普通の競馬をしようなんて余計な事を言わなければ良かった」と頭を抱えた池江は次の刹那、信じられない光景を目の当たりにする。逸走して最後方まで下がったステイゴールドの仔が再びエンジンを点火。今まとめて抜き去って行った馬群を追いかけ出したのだ。

 この瞬間に目をむいたのは池添も同じだった。勝手に軌道を修正して走り出したパートナーの上で「まだ行くんだ?!」と驚いていた。

 こうして馬群に取りついた3冠馬はコーナーで大外をまくるように進出。4コーナーでは早くも先頭に並びかける位置まで上がってきた。まるで漫画のような驚愕の走りだが、池添は苦虫を噛み潰したような表情で当時を思い起こす。

 「僕が慌てて一気に進出してしまい、最後も右へ行く面のあるオルフェーヴルを左から叩いてしまいました」

 結果はギュスターヴクライに半馬身及ばない2着。横綱が相撲に勝って勝負に負けたといえる内容だったが、池江は言う。

 「初騎乗の騎手だったら3コーナーで逸走した時に落とされていたでしょうね。謙一で良かったです」

「普通の競馬」をと指示した理由

 その池江も池添もファンや関係者の皆様に迷惑をかけて申し訳ないと繰り返したが、そこでそもそも何故「普通の競馬をさせよう」と思ったか?である。先に記したように「本当に強い馬に育てよう」とした他にも、大きな理由があった。池江は語る。

 「最後方から差し切る“ウルトラC”みたいな競馬ではヨーロッパでは通用しません」

 そう、オルフェーヴル陣営は秋にはヨーロッパ最高峰のレースの一つである凱旋門賞(GⅠ)挑戦を目標に掲げていた。凱旋門賞で勝とうと思えば最後方からの競馬では無理。そう考えて戦法の変更に踏み切ったのである。

後にフランスへ遠征した際のオルフェーヴル
後にフランスへ遠征した際のオルフェーヴル

 「でも、オルフェに余計な事をしてはいけないと痛感させられる結果になってしまいました」

 池江はそう言うと以前読んだという文献について続けて語った。それはオルフェーヴルの父の父であるサンデーサイレンスについて、現役時代に管理したC・ウィッティンガム調教師の言葉を綴った記事だった。

 「『サンデーに関しては他の馬よりも許容範囲を広げてやる必要があった』と彼が言っていました。その言葉を思い出し『あぁ、オルフェも他と一緒にしようとしてはいけないんだな』と分かりました」

 池添も首肯して言う。

 「オルフェーヴルに関してはやはり少々無理を承知してでも抑えた方が力を発揮出来る事がハッキリしました」

 池江も池添も当時、既にそれぞれ一流といえる立場になっていた。そんなトップホースマンをしても、競馬の難しさを改めて痛感させられる結果となった。それが12年、オルフェーヴルが2着に敗れた阪神大賞典だったのだ。

 その後、オルフェーヴルは凱旋門賞を2年連続で2着に健闘し、引退の一戦となった有馬記念は2着に8馬身の差をつけてぶっち切ってみせた。これらの好走は、もちろんこの時の阪神大賞典とも見えない線で繋がっていたのである。

 今週末の阪神大賞典は、果たしてどんな未来に繋がる結果になるだろう。そんな想いも胸に観戦したい。

阪神大賞典では思わぬ形で敗れたオルフェーヴルだが、同じ年の凱旋門賞で2着に健闘する(奥の赤帽)
阪神大賞典では思わぬ形で敗れたオルフェーヴルだが、同じ年の凱旋門賞で2着に健闘する(奥の赤帽)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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