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大相撲・新十両で13勝の阿武剋 モンゴルから来た逸材の聡明な素顔に迫る「数学と英語が得意でした」

飯塚さきスポーツライター
流暢な日本語でインタビューに応えてくれた阿武剋(写真:すべて筆者撮影)

先の大相撲5月場所で新十両として土俵に上がった、モンゴル出身の阿武剋。まだ髷も結えない逸材は、13勝2敗の好成績で場所を終えた。

高校から相撲留学で来日。名門・日本体育大学4年次に学生横綱となり、昨年の九州場所で初土俵を踏んだ。勢いに乗る若き大器に、5月場所の振り返りとこれまでの歩みを語っていただいた。

好成績の5月場所 自己評価は「80点」

――新十両となった5月場所。心境はいかがでしたか。

「プレッシャーはなかったですね。場所前から二桁勝利を目標に稽古してきたので、取り組んできたことが結果に出たのがうれしかったです」

――初めて15日間土俵に上がりました。

「長かったです。いつ終わるんだろうって。単純に、番数が多くなるとケガの心配も増えるので、気疲れで硬くなることもありました。ただ、7番のときよりも1番の重みが違うというか、1回負けてもまだ頑張れると思えるのはよかったです」

――所作を含め、初めてのことが多かったと思いますが、いかがでしたか。

「土俵入りが一番緊張しました(笑)。6日目くらいまで緊張していて、1テンポ遅れていましたね」

――しかし、序盤戦から好調でした。

「体が動いてくれていたので、あとは稽古場でしていることをしました。攻められないように耐えて、自分がいい形になったらまわしを取って前に出る。投げにいったりしなかったところがよかったと思います。14日目(若隆景戦)、はたかれたのは自分のミスだったなと思って悔しいですね。相手に負けたというより、自分がミスした。次は勝てるように頑張ります。15日間楽しかったです」

――楽しかったと言えるのがいいですね。自己評価は何点くらいでしょうか。

「80点くらいですかね。よく体が動いてくれていたし、大きな病気やケガもなくできたので、その部分では100点なんですが、自分で100点と思うと成長が止まってしまうので、まだまだ強くなれるという意味を込めて、80点にしましょう」

――素晴らしい志ですね。残りの20点分の課題は。

「立ち合いの低さです。低すぎるとはたかれて落ちてしまうし、高すぎると中に入られてしまう。自分の力を最大に伝える高さを身につけていきたいと思っています。師匠からも、もっと立ち合いを厳しくと言われています」

稽古では立ち合いの低さを意識しているという。取材日の稽古では、いっちょ押しを入念に行った
稽古では立ち合いの低さを意識しているという。取材日の稽古では、いっちょ押しを入念に行った

――目指す理想の相撲は。

「鶴竜関のような、当たって前みつを取り、片方の手をハズに当てて前に出る相撲です。自分が力を出して、相手に力を出させない、最も効率的な相撲なので、それを目指しています」

自分を奮い立たせてくれた恩師の言葉とは

――モンゴル出身の関取。相撲以外のスポーツ経験はありますか。

「小学生の頃はサッカーをやっていて、中学3年生の最後の半年くらいはレスリングとモンゴル相撲をやっていました。そのまま続けるつもりでしたが、高校から日本に来たので辞めました」

――日本に来た経緯は。

「そもそもまず留学をしたいなと思っていたんです。高校から相撲留学に行けるチャンスがあると聞いて、旭丘高校のセレクションに出てみました。70人くらい受けたなかで、8人が監督と面接し、2人合格。そのうちの一人に選んでもらいました。相撲経験はなかったんですが、不安はありませんでした。サッカーは楽しかったし、いろんな思い出もできたので、未練もなかったです」

――日本語がとても流暢ですが、言葉はどう覚えましたか。

「日本に来てからでしたが、半年くらいで問題なく話せるようになりました。学校では、クラスとは別に日本語の授業を受けていたのと、日常会話は寮生活だったので、先輩に教えてもらいました。喋るのと読み書きとは全然違うじゃないですか。パッとは出てこないですけど、授業では、日常会話で一生使わないであろう言葉を教わりましたね(笑)」

――言葉以外の苦労は。

「いろいろありましたが、苦労があったからこそ成長できたと思っています。例えば、食では生ものに抵抗があったんですが、いまは生魚も大好きです。あとは湿気。起きたら布団の裏が濡れていて、最初は喉を壊すこともありました。ほかにも、人との距離感など、私生活で学ぶことは多かったですね」

――勉強も得意だったそうですね。

「一生懸命頑張りました。特に数学と英語が得意でした。セレクションのとき、最後の監督との面接でも、日本の大学を出てみたいと話しました。大学に行くときには監督の母校である日体大を薦めてくださって、行くことになりました」

――大学の稽古はいかがでしたか。

「高校の稽古が厳しすぎて、大学は全然でした。というのも、日体大の齋藤(一雄)監督は、選手にやらせることはしないんです。よく先生が言うことは『私は皆を強くすることはできない。でも、強くなろうとするなら、後押しすることはできる』。本当にその通りで、部員は50人近くいるので、監督一人では目が届きません。でも、やる気のある子には必ず声をかけてくれます。日体大は、自分がやる気さえあれば強くなれる場所でした。体育大学とあって設備も素晴らしく、土俵は3面。道場の中にジムのようなトレーニング施設もあります。いい環境で4年間過ごせました。その分、コロナで2年間学校に入れなかったのが悔しいです。コロナがなければもっと強くなれたと思います」

――素晴らしいですね。プロ入りを決めたのはいつ頃ですか。

「大学3年生の終わりです。同級生が就活をするなか、卒業して普通に働くとしても、何をするかは考えていなくて。現時点で一番自分ができることは相撲だったので、大相撲で10年間やってみようと思って監督に伝えたら、プロに行くのはもう決まっているんだから稽古しておきなさいという感じで、そこで初めてああそうなんだと思いました(笑)。そこから1年間、いつもより頑張って稽古して、最後の大会で優勝できた。そこは自信になりましたね。人は本気になって稽古を積むと、結果に表れるんだなと、頑張れる勇気をもらいました。その後、お誘いをいただいて、阿武松部屋に入りました。最初は知り合いもいなくて不安だったんですが、入ってみたら全然そんなことなくて、とてもよくしていただいています。特に兄弟子たちがとても優しいので、いい部屋に入れてよかったです」

阿武松部屋の稽古の様子。幕内の阿武咲(写真左)を筆頭に、兄弟子たちと日々汗を流す
阿武松部屋の稽古の様子。幕内の阿武咲(写真左)を筆頭に、兄弟子たちと日々汗を流す

――皆さん仲がよくて雰囲気がいいですよね。現在、自由な時間は何をしていますか。

「関取になってようやく自由時間ができました。最近は、大学のときにやっていたような筋トレを再開して、体を大きくしようと思っています。特に肩や首まわりが寂しいので(笑)。筋肉をでかくしたいので、軽い負荷で回数をこなしています。肩回りが大きいと、差したときに相手を起こしやすくなると思って、一応考えながらやっています」

――ますますの進化を楽しみにしています。最後に、次の名古屋場所の目標は。

「またこうして取材していただけるように頑張ります。よろしくお願いします!」

スポーツライター

1989(平成元)年生まれ、さいたま市出身。早稲田大学国際教養学部卒業。ベースボール・マガジン社に勤務後、2018年に独立。フリーのスポーツライターとして『相撲』(同社)、『大相撲ジャーナル』(アプリスタイル)などで執筆中。2019年ラグビーワールドカップでは、アメリカ代表チーム通訳として1カ月間帯同した。著書『日本で力士になるということ 外国出身力士の魂』、構成・インタビューを担当した横綱・照ノ富士の著書『奈落の底から見上げた明日』が発売中。

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