【戦国こぼれ話】新参者を起用して大失敗!宇喜多騒動で家臣が大量に退去した知られざる理由
日本でも最近になって、転職者が増えるようになったものの、まだ一つの会社に勤めあげる例が多い。戦国時代にも引き抜きなどで他家に移る例があったが、宇喜多秀家は新参者を登用して失敗した。その原因を考えてみよう。
■宇喜多騒動とは
宇喜多騒動の概要を示す一次史料は、「鹿苑日録」慶長5年(1600)1月8日の記述である。短いものであるが、概要を記すと、次のようになろう。
中村次郎兵衛が去5日に亡くなった。その理由は、この頃宇喜多秀家の年寄衆を差し置いて、中村次郎兵衛が専横な振る舞いを行ったためらしい。中村を討ったのは、秀家から放逐された牢人らであった。その後、首謀犯は大谷吉継のもとを訪れた。秀家には、このことを知らせないとのことである。首謀犯を失った被官人ら70人は、各地へ落ち延びていった。
討伐されたという中村次郎兵衛は、もともと前田利家の家臣だった。豪姫が秀家に嫁ぐ際に同行して、そのまま宇喜多家に仕官したという。
中村氏に関する史料も非常に乏しく、宇喜多家の大坂屋敷の家老であったなどといわれているが、詳細は不明な点が多い。実はこの記述のうち、中村次郎兵衛が討たれたというのは誤りである。
この事件によって、宇喜多家中からは戸川氏らの譜代の重臣が去っていた。重臣の大量の退去によって、宇喜多家中の弱体は加速的に進んだといわれている。
宇喜多家を辞去した中村次郎兵衛は、慶長7年(1602)頃から再び加賀藩の前田家に仕えたことがわかっている。加賀藩では寺社の取次役や年貢の算用を行うなどし、2000石の知行を与えられていた。
また、名乗りも「次郎兵衛」から「刑部丞」に変えている。中村氏が亡くなったのは、寛永13年(1636)7月のことだった。
■なぜ騒動が起こったのか
騒動より以前、文禄・慶長の役に伴う軍役負担(出兵する将兵の準備)に伴い、諸大名の領国では検地が行われた。宇喜多氏も例外ではなく、過酷な検地が行われたといわれている。
宇喜多氏家臣団は中小領主層によって構成され、その連合体的な意味合いが強かった。大身の家臣は城持ちの一個の領主だったが、末端の家臣は未だ中世的な土豪的要素があり、兵農未分離という状態だった。
土地に根付いていた中小領主は、検地による年貢の増長や軍役負担を避けたいと考えたのではないだろうか。そうした思いは、中小領主を束ねる、戸川氏ら重臣のもとに届いたのかもしれない。
一方で、宇喜多氏や秀家を支える中村氏らは、朝鮮出兵を控えて徹底して検地を行う推進派だった。秀家は新参の中村氏を起用し、検地を推進しようとしたのだ。
宇喜多騒動は検地をめぐって、宇喜多氏や秀家を支える新参の中村氏らと、古参の戸川氏らの重臣層の対立が騒動の大きな要因の一つだったと考えてよいだろう。
■騒動の顛末
事件の5日後には、首謀者が磔にされたことが史料に見える(「時慶記」)。その4ヵ月後の同年5月12日、大谷吉継、西笑承兌および奉行衆は長束正家邸において、宇喜多氏の騒動について協議を行った(「鹿苑日録」)。
さらにその10日後には、対立が収束した様子をうかがえる(「武家手鑑」)。5月下旬の段階で、騒動はいったん収まったと考えてよいであろう。
最終的に、騒動は徳川家康が秀家と重臣との間の仲裁を行うことで解決した。秀家は自らが家臣の処分を行うと、さらにほかの家臣の反発を受ける可能性があったので、家康の力を借りねばならなかったという。
■まとめ
普通の会社でも、中途入社組が活躍する場合とそうでない場合がある。特に問題なのは、新参と古参との軋轢だろう。うまくなじめないと、失敗する例は多々あるようだ。
そのカギを握るのは、戦国時代の場合は当主たる戦国大名で、現代ならば社長だろう。その力量によって、どうにでもなるようだ。