服部半蔵だけではなかった。織田信長を窮地に陥れた伊賀忍者とは
大河ドラマ「どうする家康」では、服部半蔵が登場するが、半蔵は純粋な意味での忍者ではなかった。今回は、織田信長を窮地に陥れた伊賀忍者について考えてみよう。
戦国時代に大名の指示のもと、諜報活動に従事していたのが忍者である。しかし、忍者は諜報活動を行っていたので、その存在を知られてはならなかったので、関係する史料は乏しい。逆に目立ちすぎるというのは、忍者として失格なのかもしれない。
三重県では、伊賀忍者があまりに有名である。中でも「伊賀三上忍」の服部保長、百地三太夫、藤林長門といえば著名な存在である。百地三太夫などは、映画の主人公にもなったほどだが、以下、彼らの生涯について考えてみよう。
百地三太夫は、伊賀流(百地流)忍術の創始者といわれている。読み本『賊禁秘誠談』(17世紀後半に成立)には、盗賊として名高い石川五右衛門の忍術の師匠として登場する。かの霧隠才蔵(真田十勇士の一人)も弟子だったというが、疑わしい話である。
実際の三太夫は、伊賀国名張中村(三重県名張市)の出身で、百地清右衛門の長男として誕生した。実名は泰光といった。天正9年(1581)に名張で柏原合戦が起こった際、三太夫は織田信長を相手に奮戦したと伝わっている(『伊乱記』)。
ところが、三太夫はこの合戦で戦死したとも、その後も生き残ったと言われるが、詳細は明らかではない。三重県伊賀市の青雲禅寺に供養塔があり、名張市には百地屋敷が残っている。
藤林長門守は生年不詳で、実名は正保、保豊など諸説ある。伊賀国北部に所在する湯舟郷(三重県上野市)を支配し、甲賀忍者にも影響力を保持していた。しかし、実に謎が多い人物であり、百地三太夫と同一人物ではないかという説すらある。
天正9年(1581)の第二次天正伊賀の乱では、信長に味方して生き残ったというが、詳細は不明である。また、山本勘助(武田信玄の軍師)に忍術を教えたとも伝わるが、疑わしいといえよう(『藤林家由緒書』)。
服部保長は、初代の服部半蔵であるが、生没年は不詳である。もとは千賀地を名字としたが、旧姓の服部に改姓したという。保長は上洛し、室町幕府12代将軍・足利義晴の配下となった。その後、義晴のもとを辞した保長は、三河の松平清康(徳川家康の祖父)に仕官した。