【独自取材】能登半島地震1か月:応援職員が見た能登で今「足りないもの」と「足りすぎているもの」
元日に震度7を観測した能登半島地震の発生から1か月を迎え、復旧がある程度進んだところと、まだまだ復旧の手立ても確立していないところとが見え始める時期になりました。
現地では今、何が必要とされていて、何が復興のボトルネックになっているのか。
1月中旬から下旬にかけて現地へ派遣された応援職員に独自取材した情報をもとに解説します。
たった6人で…圧倒的なマンパワー不足
筆者が取材した応援職員の派遣先は輪島市役所。
約500人の職員が働く、決して大きくはない役所です。
そしてもちろん、職員のほとんどが被災者でもあります。
人口約2万3000人の輪島市で、100人を超える死者、ほぼ全域での断水、約1700戸での停電、約3000人の避難者(数字はいずれも1月29日時点)を抱えるには少なすぎる人数です。
地震・津波・火事・土砂災害が同時に起きた輪島市では、復旧のためにすべきことの分野があまりにも多岐にわたります。
もちろん全国から応援職員は派遣されてきていますが、それでも1つの分野に充てられる職員の数がたった6人、ということも…。
そんな過酷な環境下でも地元のために休みなく働く現状がありました。
建っているように見える家でも…
震度7の揺れから2週間経った1月中旬、輪島市内でもようやく応急危険度判定の作業が進みつつありました。
市内中心部には倒壊や焼失した建物に混ざって普通に建っているように見える家屋もかなりありますが、ざっくり見回した限りでは全体の約半数が「危険」の赤い紙、残りのうち約半数が「要注意」の黄色い紙が貼られた状態。
「危険」は立ち入り自体が危なく、「要注意」なら注意して立ち入る必要があることを示していますが、たとえ用事があって一時的に立ち入ることができたとしても、その後ずっとそのまま住み続けられるわけではないので結局は建て直す等の必要があります。
遠目に見ると「意外と建物がちゃんと残っているな」と感じるエリアでも、実際にはゼロから街を復興させないといけない場合が多いのです。
「東日本と変わらない…」
実は今回筆者が取材をした応援職員は、東日本大震災からの復興現場にも携わっていました。
もちろん、東日本大震災と能登半島地震とでは、犠牲者数が2ケタも違いますし、津波の高さも被害地域の広さも複合災害の重さも違います。
しかし、それでもその職員が輪島に到着して「東日本と変わらない」と感じたのは、住民目線での実感。
家族と友人を亡くし、住み慣れた家を失い、電気と水道がない状態で長期間の避難生活を強いられる人自身の苦しみは、東日本大震災の被災者と変わらない、ということなのです。
ほんの少しの「日常」の大切さ
普段、私たちはスーパーで食料品の買い出しをする時、「買い物ができて嬉しい」と感じることはほぼないでしょう。
しかし災害という過酷な非日常の中で、「買い物ができる」という「日常」は単なる生活インフラではなく、かけがえのない安心感であり癒やしになります。
輪島市中心部では、壁が剥がれ落ちた店舗でなんとか販売を続ける小売店も見られました。
地元のためになんとか、ほんの少しでも「日常」を提供したいという強い思いを感じました。
ギリギリの現場が倒れないために
筆者が取材をした職員の口から何度も発せられたのは、輪島の人たちが本当に忍耐強く地元のために尽くしているという言葉でした。
地元を愛していて人情に厚い人が多く、ついつい自分を後回しにして人のために尽くしてしまう。責任感、人情、思いやり…これらは「足りすぎている」。
一般の人も、町内会などの組織を担う人も、役場の人も、です。
そして特に役場ではその傾向が強く、同時にもっとも倒れてはいけない現場でもあります。
現場で手を動かすマンパワーだけでなく、指揮を出すマンパワー、数多の業務を交通整理するマンパワーなどなど、複数の階層で支援が必要なのはもちろん、心のケアも含め「倒れないため」の支えが今、求められています。