カナダでダービーを制した史上初の日本人騎手ダイスケフクモトってどんな人?
挫折から始まった騎手人生
日本時間9月13日早朝、トロントからビッグニュースが届いた。北米で最も歴史のあるレースといわれるカナダ版ダービーのクイーンズプレートを、日本人ジョッキーの福元大輔が制したのだ。
福元が生まれたのは1997年10月13日。23歳の誕生日の丁度1ケ月前に今回の偉業を達成したわけだ。福岡県生まれの鹿児島県育ち。父・邦征、母・優子の間で1歳下の妹と育てられた。馬との出会いは鹿児島で盛んに行われていた草競馬。
「4歳の時にはポニーでレースに参戦していました」
そう述懐する福元は、小学生低学年の時には騎手を目指すようになっていたと続ける。
「中学1年の時にジョッキーベイビーズの本選へ進み、東京競馬場で乗せていただけました」
プロの騎手となってここで乗りたいと強く思った瞬間だった。中学3年で競馬学校を受験。合格すれば藤田菜七子らと同期の生徒になるはずだった。しかし、通過したのは一次のみ。二次試験で不合格となってしまった。騎手になりたい気持ちを捨てきれなかった福元は高校を受験せず、1年間、乗馬クラブに通う毎日を過ごした後、再受験。
「でも今度は一次も受からず大ショックでした」
こういった苦しい状況の時にこそ、行動に移すのが彼の良いところだ。
「何の伝手もなかったけど、エイシン牧場の電話番号を調べて連絡し、働かせてもらう事にしました」
更にそこで新たな進路を見つける。牧場の人に、海外に挑戦するのも手だと言われたのだ。
「候補地の中にカナダがありました。ここも何もつながりはなかったけど、まずは語学留学のつもりで行ってみました」
こうして15年の初夏にカナダ入り。すると心を揺さぶられる一つの出来事があった。
「クイーンズプレートを観戦しました。その盛り上がりの凄さに圧倒され、いつかこのレースを勝ちたいと思うようになりました」
それはつまりカナダに居を移す決心をした瞬間だった。ここでまた彼の行動力がモノを言う。すぐに厩舎回りをして、カタコトの英語で働かせてくれないか交渉をした。断られても挫けず、次の厩舎へ。何軒かそんな行動を繰り返すうち「ホットウォーカーで良いなら」と雇ってくれる厩舎を見つけた。ホットウォーカーとは曳き運動をするのみの役割。半年間、毎朝ひたすら馬を曳き続けた。翌16年の春にはビザを取得し、調教に乗れるようになった。夢へ一歩進んだかと思えたのも束の間、競馬の神様は試練を用意していた。福元は言う。
「英語力が足りないという理由で突然、厩舎を解雇されてしまいました」
ところが禍福は糾える縄の如し。このピンチを彼はまたしてもチャンスに変える。英語を猛烈に勉強しながら新たに雇ってくれる厩舎を探し当てると、そこで1人の男と出会った。
「モーリシャス人の“プラム”と出会いました。彼は『これからエージェント(騎乗仲介人)の免許を取る』と言っていて『取得出来たら同じ新人同士、一緒に手を組んで頑張ろう!!』と声をかけてくれました」
念願の騎手デビューも苦しいスタート
福元が騎手免許を取ったのは翌17年の7月。プラムは先述の言葉を忘れていなかった。こうして2人での新たな船出の時を迎えた。しかし、その航海は決して順風満帆ではなかった。いきなりの逆風で、1ケ月、2ケ月と勝てない日々が続いた。念願の初勝利は約3ケ月後の10月13日。当時の気持ちを次のように語った。
「このまま勝てないのかと不安になる日もありました。でも、結果的に二十歳の誕生日当日に勝てて、忘れられない初勝利になりました」
1つ勝てた事で追い風が吹き始めた。シーズン終盤という事もあり、結局その年は4勝に終わったが、翌18年は一気に飛躍。36勝を挙げ、見習い騎手の第2位。JRA賞のカナダ版といえるソヴリン賞の優秀見習い騎手賞を受賞した。ちなみにこの時、見習いリーディング1位となり、最優秀見習い騎手賞を受賞したのが、福元を追うようにしてカナダ入りした木村和士。福元の幼馴染みだった。
「和士は後輩ですからね。正直、悔しい気持ちもありました。ただ、切磋琢磨して頑張って来られたと思うし、これからもそうしていければ良いという気持ちは強くなりました」
コロナ禍の中で掴んだ一つの縁
19年はシーズン開幕日にいきなり勝ち鞍を挙げ、好スタートを切った。その後もそれなりに勝てて、順調に行っていると思えたが、ここで騎手には付き物のアクシデントに襲われた。落馬による怪我だった。
「左ひじの亀裂骨折で休まざるをえなくなりました」
休んでいる間に、シーズンオフが近付いた。焦る気持ちもあり、シーズンが終わる前に復帰。完治しないままニューヨークへも飛び、乗り鞍を探した。しかし、万全でなかった事もあり、思うように勝てず。そうこうするうち、新型コロナウィルスの騒動が大きくなり、ビッグ・アップルにいられなくなった。
「カナダに戻りました。ニューヨークでは思うような成績を残せなかったけど、レベルの高いところへ挑戦しに行った事が認められたのか、周囲の僕を見る目が変わってきたのは感じました」
こうして意気揚々と迎えるはずだった今シーズンの開幕だが、コロナ禍はカナダにも等しく迫っていた。街はロックダウンされ、競馬どころか調教さえ停止。外出もままならない日が1ケ月以上続いた。
「和士と電話で話すのがせいぜい。誰にも会えず、かといって日本に帰る事も出来ない。正直、この時期は辛かったです」
それでもいつか来るであろう再開の時に備え、トレーニングは欠かさなかった。結果、5月になってようやく調教が再開。翌月、約2ケ月遅れでようやく開幕となった。すると……。
「開幕してしばらくした頃、ジェシーの馬に乗せてもらう機会がありました」
ジョージー・キャロル。カナダを代表する女性調教師。それまでは挨拶をかわす程度で、とくに話をした事もなかった。ところがこの初騎乗の日は、福元にとって転轍機がガチャンと大きな音を立てて、進路を変えたような1日となった。
「2レース、依頼されたのですが、両方勝つ事が出来ました。ここから一気に騎乗依頼されるようになったんです」
最初に依頼されて勝利した2頭のうちの1頭であるコートリターンでは8月にステークスを優勝。この自身初のステークス制覇が更に鞍上の評価を高め、ついに念願のクイーンズプレートへの騎乗を依頼されるまでになった。
「クイーンズプレートは勝ち負けよりまずは乗る事が目標でした。だから依頼された時点ですでに嬉しかったです」
オーナーも同様に「出せるだけで誇らしい」と語っていた事で、レース本番も不要なプレッシャーに圧し潰される事はなかった。福元は当日の心境を次のように述懐する。
「せっかくのクイーンズプレートだから楽しんで乗ろうと考えるようにしました」
依頼されたマイティーハートとコンビを組みレースに臨むのは初めて。調教には直前の2週にわたって騎乗した。左目の眼球がない馬という事で、気を使って調教に乗った。すると……。
「ダクの際に見える右側へ行きたがる面があったり、多少変な動きをする事があったりしました。でも、走らせるとズブさはあったものの、普通に走ってくれました」
競馬へ行くと、更に変わり身を見せた。
「好位に控えるつもりだったけど、好スタートを切れたので作戦を変更してハナへ行かせました。すると、全くズブさを出さずに走ってくれました」
結果、ラスト1ハロンを残して勝利を確信出来るほどの走りを披露。2着を大きく突き放し、夢の一つだったカナダのダービー・クイーンズプレートを堂々と優勝してみせた。
「夢にまでみたクイーンズプレートを初騎乗で勝ててしまいました。今年は無観客開催だったけど、それでも普段とは雰囲気が違い、やはり威厳のあるレースだと感じました。勝った直後は自分でも信じられない感じだったけど、その後の周囲の反応の凄さに改めて『クイーンズプレートを勝てた』『勝って良かった』と思いました」
木村からも祝福の声をかけられた。エージェントのプラムも喜んでくれた。日本の友人、知人からも沢山のメッセージが届いた。両親からは何の連絡もなかったので、まだ知らないのかと思い、連絡をした。すると……。
「父は知っていて喜んでくれていました。ただ、手放しで喜ぶという感じではなく『明日もまたレースが続くだろうから、頑張ってね』と言われました」
次回は大勢のお客さんが見守る中でもう一度クイーンズプレートを勝ってみたいと福元は言う。そのお客さんの中に、両親の姿があれば互いにもっと喜びを分かち合える事だろう。コロナ騒ぎが収束した時に、そういう姿を見せられるように、ダービージョッキーはこれからも異国で変わらぬ精進を続けていく。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)