【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家の後継者は、一幡か千幡かという大問題
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の29回目では、源頼家の後継者をめぐって揉めていた。その候補である一幡と千幡や周辺の事情について、詳しく掘り下げてみよう。
■一幡と千幡
まず最初に、一幡と千幡を取り上げておこう。一幡は、建久9年(1198)に頼家の嫡男として誕生した。母は、比企能員の娘・若狭局である。普通に考えると、嫡男の一幡が頼家の跡を継ぐのが順当である。とはいえ、そんな単純な話ではなかった。
正治2年(1200)、頼家の次男(あるいは三男)として善哉が誕生した。のちに、実朝(千幡)を暗殺した公暁だ。善哉の母をめぐっては諸説あり、なかなか厄介な問題である。善哉の母の候補としては、次の3人の女性の名が挙げられている。
①足助(加茂)重長の娘・辻殿(『吾妻鏡』)。
②比企能員の娘・若狭局(『尊卑分脈』)。
③三浦義澄の娘(縣篤岐本『源氏系図』)。
いずれも二次史料であるだけに、にわかに確定し難い。大河ドラマでは『吾妻鏡』の説を採り、辻殿(ドラマでは「つつじ」)としていた。なお、善哉の乳母父を務めたのは、三浦義村である。
一方で、頼家の弟・千幡も重要である。千幡は、建久3年(1192)に頼朝と北条政子の次男として誕生した。乳母は、政子の妹の阿波局が務めた。万が一、頼家が早逝した場合、有力な後継候補だったに違いない。
■北条氏と比企氏の暗闘
冒頭で「嫡男が跡を継げばよい」と書いたものの、ことはそう簡単ではなかった。というのも、頼家の後継者いかんによっては、北条氏と比企氏のいずれかが幕府で主導権を握るからだった。
一幡は比企能員の娘・若狭局が生んだ子だったので、頼家の後継者になれば、比企氏が幕府内で主導権を握ることになる。一方、千幡は政子が産んだ子だったので、頼家の後継者になれば、北条氏が幕府内で大きな発言権を持つことになる。
したがって、北条時政も比企能員も幕府内で確固たる地位を築くべく、時政は千幡を、能員は一幡をそれぞれ押すことになった。それはまさしく、命懸けの暗闘だったといえよう。
■まとめ
中世を通して、跡継ぎを決める場合、当主の嫡男が継ぐのが原則だったが、それで決定とは言えなかった。家臣らの意向に左右されることも珍しくなかった。たとえば、後継者の候補が無能だった場合、家臣は決して賛意を示さず、ほかの兄弟を擁立することもあった。
この場合も似たような話で、家臣(北条氏、比企氏)がそれぞれ押す後継者の候補がおり、どちらが実際に跡を継ぐかで揉めたということになろう。