【深掘り「鎌倉殿の13人」】鎌倉幕府の成立と源頼朝が行った独裁政治を探る
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝の政治手法について取り上げられていなかった。非常に重要なことなので、詳しく掘り下げてみよう。
■問注所の開設
鎌倉幕府が成立した年については諸説あるが、今では文治元年(1185)説が有力視されている。しかし、それ以前から幕府の組織は、少しずつ整備されていた。
元暦元年(1184)10月、問注所が開設された。問注所とは、訴訟を扱う機関である。長官たる執事を務めたのは、京都からやって来た三好康信である。康信を支えたのは、寄人(よりゅうど)と呼ばれる職員だった。
当時の裁判は、訴人(原告)と論人(被告)が直接対決し、その結果を問注記として取りまとめた。康信は京都で訴訟を扱う太政官の史を務めていたので、手慣れていたのだ。問注記は頼朝に提出され、裁決を仰いだのである。
康信が頼朝に登用されたのは、乳母の妹の子という関係からだった。康信は京都にいたときも、頼朝に朝廷の状況などを逐一報告していた。頼朝が信頼できる人物の一人だったのだ。
■問注所の意味
ここまで見ればわかるとおり、問注所が裁判の概要をまとめたのは、あくまで頼朝の最終的な判断を仰ぐためだった。その後、問注記を踏まえ、頼朝の目の前で訴人(原告)と論人(被告)の対決が行われたのである。これを「御前対決」という。
御前対決は、たびたび執り行われた。建久2年(1191)における、久下直光と熊谷直実との久下郷と熊谷郷(いずれも埼玉県熊谷市)の境界をめぐる争いもその代表である。判決に不満を抱いた直実は、自ら髻を切って出家した。有名な話である。
初期の幕府の訴訟裁定は、頼朝が訴人(原告)と論人(被告)の言い分を聞き、判決を下すスタイルだったのだろう。やがて、訴訟制度が整備され、問注所で訴人(原告)と論人(被告)の対決が行われ、その結果をもとに頼朝が判断を下すようになった。
■むすび
ともあれ、御家人間の争いの裁判権を掌握することは、頼朝にとって重要なことであった。その後、頼朝の裁判権は、一般の人々の雑人裁判へと広がっていく。これを頼朝の独裁とは言い過ぎかもしれないが、その親裁権は将軍権力の淵源だったのである。