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【深掘り「鎌倉殿の13人」】激闘の和田合戦いよいよ開始!最初は優勢だった和田義盛の軍勢

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
由比ガ浜。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、和田合戦が勃発した。その全貌について、諸史料に基づき詳しく掘り下げてみよう。

■和田合戦の勃発

 建暦3年(1213)5月2日の16時頃、ついに和田義盛は反義時の兵を挙げた。義盛は百五十余の軍勢を3つに分けて、幕府の南門、義時の邸宅を襲撃した。

 義時は幕府に出仕していたので留守にしており、警備をしていた兵が応戦したが、その多くは義盛の兵によって討たれてしまった。義盛の兵は、そのまま大江広元の邸宅を襲ったのである。

 勢いに乗じた義盛の兵は、そのまま幕府を攻囲すると、御所に放火した。幕府方には、義盛を裏切った三浦義村も駆けつけ、艶書事件で蟄居していた北条朝時(義時の次男)も出陣し、義盛の軍勢と戦った。

 このほか幕府方では、北条泰時(義時の長男)、足利義氏(義時の甥)も馳せ参じて防戦に努めた。義盛の軍勢は数が多いうえに、一騎当千の強者が多かった。いかに幕府軍とはいえ、容易に義盛の軍勢を追い払えなかったのである。

■朝比奈義秀の奮戦

 義盛軍のなかで、ことのほか気を吐いたのが朝比奈義秀(義盛の次男)だった。義秀には大力の逸話が残っているほどで、その武勇は天下に轟いていた。むろん、今回の合戦でも大活躍した。

 義秀は御所の惣門を打ち破って南庭に乱入すると、もとより火を掛けられていた御所は一宇も残らず焼失した。実朝は戦火を避けるため、法華堂に逃亡したのである。

 義秀は戦いで猛威を振るうと、その壮力は神のようであり、敵軍は死を免れることができなかったという。敵の五十嵐小豊次、葛貫盛重、新野景直、礼羽蓮乗らは、次々に義秀によって討ち取られた。

■まとめ

 義秀は足利義氏に組み打ちを仕掛けるが、義氏は敵わないと考え、馬に乗って逃げた。しかし、義盛軍には徐々に疲労に路が濃くなり、多勢の幕府軍は態勢を整えた。大江広元は、政所の警護に当たった。

 そして、幕府軍が義盛軍に反転攻勢を仕掛けてきたので、義盛軍は防戦一方になりつつも、由比ガ浜へと退いたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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