合掌、岡野俊一郎さん。若き日の写真と、2002年日韓W杯の縁とは(その2)
岡野俊一郎さんは1931年、現在の東京都台東区に生まれた。3歳から水泳を始め、4歳ではスキーを履いた。水泳は戦前の全国大会である明治神宮大会に、50m自由形の東京代表で出場したほどで、父親が持っていた店の野球部にも入っていた。根っからのスポーツ好きだったらしい。
「でも、サッカーなんていうのは全然知りませんでした。少なくとも、中学に進むまではね」
下町生まれの江戸っ子ながら、きっぷのいいべらんめえではなく、落ち着いて理知的な口ぶりを思い出す。
「都立五中、まぁこれは旧制ですからいまの都立小石川高校(現都立小石川中等教育学校)、ここに進んでから友だちにサッカーをやろうと誘われたんです。この中学はおもしろいことに、戦前からサッカーが校技だった。いまもって、硬式野球部がないくらいです。
私は終戦の翌年に入学しましたが、そのころはモノがなにもない。食べることが最優先で、遊ぶのは二の次の時代です。だんだん落ち着いてきて部活動を復活しようかとなると、真っ先に活動を開始したのが校技であるサッカーでした。戦時中はスポーツどころではなかったから、サッカーでもなんでも体を動かせるだけで喜びでしたね」
岡野さんはその後東京大に進み、日本代表を経て63年にコーチに就任すると、長沼健監督とともに東京、メキシコの両オリンピックを経験した。ことにメキシコでは、日本の選手登録枠に余裕があったため、コーチながら表彰式で銅メダルを首にかけてもらっている。やがて長沼さんらと日本リーグの設立に奔走し、それがのちのちJリーグへと発展していく。
サッカーだけではない。やがてJOCの専務理事などを歴任し、98年の長野冬季五輪招致などで辣腕を発揮した。僕が会ったのは、W杯招致委員会の実行委員長として多忙な時期だった。岡野さんは、こんなふうに語っていたものだ。
皆さんが亡くなっても、日本のサッカーは続く
「私が初めてW杯をこの目で見たのは、66年のイングランド大会。圧倒されました。聖地・ウェンブリースタジアムで見た大会は、レベル、スケール、すべてにおいて圧倒的だった。私は東京五輪をコーチとして、あるいはそこで暮らす生活者として実体験しています。確かにオリンピックも素晴らしいですが、単一競技で、しかも国内何都市でも行われるW杯は、熱量のケタが違いました。
そのとき、日本でもぜひW杯を実現したいと思いましたね。以前は単なるあこがれでしたが、そのころには"よし、やってやろうじゃないか"と言えるくらいには日本のバックグラウンドも整い始めていたんです。たとえば、日本リーグがスタートした。文部省(当時)の指導要領改訂によって、ラインサッカーが義務教育に採用された。W杯を開くだけの体力を、蓄えつつあったんです」
なにしろ現役時代は、莫大な遠征費を自己調達しなくてはならなかったのだ。少年期にあった日本サッカーが、大人になりつつあることを肌で感じていたのだろう。
「サッカー協会では30代で理事になりましたが、なにしろお金がないから選手を集める書類、遠征のスケジュール、自分自身でガリ版を切っていました。タイプを打って海外と交渉するのも、すべて自分。それだけのことをやってきた自負がありますから、大先輩にも言いたいことを言わせてもらいましたよ。長期的なビジョンがなければ、"皆さんが亡くなっても、日本のサッカーは続くんです"と大見得を切って、大変怒られたこともある(笑)。
もし日本でW杯を開催することができれば、世界の全大陸から、多くの若者たちが集まる。選手だけではなく、無数の観客もやってきます。そこでは日本が世界を知り、世界が日本を知るという共通理解と感動が必ず生まれます。われわれが53年に、西ドイツで味わった感動と同じものが……」
2002年W杯の日韓共同開催が決まったのは、この取材から半年後だった。
印象的なことがある。録音のテープを止め、雑談モードに入った岡野さんは、こんなふうに語ってくれた。日本の五輪招致は名古屋、大阪と、いったん落選するとそれっきりになってしまう。本気でオリンピックを開催したければ、なぜもう一度挑戦しないのか……。五輪、W杯という世界最大のイベント招致に何度もたずさわった岡野さんならではの苦言。2016年の招致に敗れた東京が、20年大会の開催を勝ち取ったとき。真っ先に岡野さんの言葉を思い出した。