家康の側室となった「お葉」とは、いかなる女性だったのか
大河ドラマ「どうする家康」では、家康の側室となった「お葉」が登場していた。「お葉」がいかなる女性だったのか、考えることにしよう。
松平家康と妻の瀬名の間には、誕生する子が少なかった。当時、子が少ないということは致命的だった。男子はもちろんのこと、女子は同盟相手に嫁がせるなどしたので、ともに必要とされていたのである。
心配に思った於大(家康の母)が侍女の「お葉」を家康の側室にしようと画策した結果、2人は一夜を過ごすことになった。「お葉」は西郡局あるいは西郡の方と称されるが、以下「お葉」で統一する。では、「お葉」とは、いかなる女性だったのか。
「お葉」の父・鵜殿長忠は、三河の鵜殿氏の流れを汲む人物だったといわれている(実父は加藤義広)。しかし、『慶長日記』には、「鵜殿長助、長行女」とあり、父の名には異説もあるようだ。
鵜殿氏と言えば、家康に滅ぼされた長照を思い出すが、長忠は鵜殿氏の傍流だった。いずれにしても、「お葉」の父や幼年期の事蹟については、不明な点は多々ある。
家康と「お葉」が結ばれた時期は必ずしも明らかではないが、永禄8年(1565)に2人の間に督姫が誕生したといわれている。ただし、督姫の生年については天正3年(1575)説もあり、むしろこちらの方が有力視されている。
そうなると、結ばれた時期は、督姫が誕生した前年とされる、それぞれの説の永禄7年(1564)から天正2年(1574)の範囲ということになろうか。この点は、今後の課題でもある。
残念ながら、「お葉」の生涯は詳しくわかっていない。慶長11年(1606)、「お葉」は伏見城(京都市伏見区)で没した。『当代記』などには「頓死」と書かれているので、何らかの病気で急死したと考えられる。「お葉」は、本禅寺(京都市上京区)に葬られた。
なお、娘の督姫は北条氏直に嫁いだが、天正18年(1590)の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、池田輝政と再婚した。もっと先になると、督姫も登場するかもしれないので期待しよう。