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空気が読めなかった織田信雄は、のちに豊臣秀吉に悲惨な目に遭わされた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」で、意外にも重要な役割を果たしているのが、織田信雄である。非常に優柔不断で無能そうに見えるが、果たしてその後はどうなったのか確認することにしよう。

 天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺の変で横死すると、その家督は三法師(織田信忠の子)が引き継いだ。その際、清須会議を見事に取りまとめ、一気に台頭したのが羽柴(豊臣)秀吉である。

 翌年、信孝(信長の三男)と柴田勝家は秀吉に戦いを挑んだが、呆気なく討ち取られてしまった。信雄(信長の次男)はうまく立ち回り、秀吉と良好な関係を築いたのである。

 とはいえ、2人の蜜月の関係は長く続かず、両者の関係は悪化する一方だった。秀吉は信雄を疎んじるようになり、自らが主導権を握ろうとした。そのような状況下、信雄は家康の了解を取り付け、天正12年(1584)に秀吉に挙兵したのである(小牧・長久手の戦い)。

 その緒戦で家康と信雄は、秀吉方の森長可と池田恒興を討って上々の滑り出しだったが、徐々に情勢は秀吉が有利になっていった。信雄は焦るばかりだった。

 そんな最中、不利を悟った信雄は、家康に無断で秀吉と和睦を結んだ。それまで信雄は、尾張・伊賀・南伊勢約100万石を領していたが、約78万石まで減らされた。

 信雄は不利な条件をのんで和睦したのだから、このままでは秀吉に滅ぼされると本当に思ったのだろう。その後の信雄は秀吉に臣従し、豊臣政権内でも有力な存在となった。

 そんな信雄に不幸が訪れたのは、天正18年(1590)の小田原征伐後のことだった。信雄は北条氏が籠る小田原城攻めに際して、大いに軍功を挙げた。

 戦後の論功行賞で、盟友の家康は三河国など5ヵ国の代わりに、北条氏の支配していた関東への移封が決定した。その移封と玉突きとなって、信雄は家康のあとの三河国など5ヵ国を与えられることになったのである。

 ところが、信雄は秀吉の国替えの命令を断ってしまった。その結果、信雄は改易という重い処罰を科され、下野国那須(栃木県那須烏山市)に流されたのである。

 なぜ、信雄は秀吉の命令に従わなかったのだろうか。古い見解によると、信雄は秀吉の主家である織田家の人間だったので、断っても大丈夫だろうという状況判断の甘さがあったといわれてきた。つまり、信雄は凡庸だったというのだ。

 近年でも諸説が唱えられているが、もっとも有力なのは、信雄の国替えは秀吉の意思でもあり、豊臣政権の政治構想の一環でもあったという指摘である。政治構想とは、「関東・奥両国惣無事」である。

 秀吉の命を受けた織田家中では、国替えの命令による混乱が生じており、それゆえ信雄は秀吉の命令を断った。しかし、秀吉の政権構想としての要求に応えられない以上、改易は避けられなかったといえよう。

 タイトルの冒頭を「空気が読めなかった」としたとおり、信雄には秀吉の意図をきちんと読めなかった。一方の家康は秀吉の命を受けて、交通の便が発達した江戸に本拠を置いた。もし、信雄が秀吉の命令に従って、家康のあとに移ったならば、その後の人生は大きく変わったに違いない。

主要参考文献

柴裕之「織田信雄の改易と出家」(『日本歴史』859号、2019年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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