「鎌倉殿の13人」、大江広元のルーツと子孫が名乗った名字
「鎌倉殿の13人」、次第に幕府の体制が固まってくると同時に、戦一辺倒の坂東武者ではない文官の存在がクローズアップされてきた。その中の一人が大江広元である。
大江氏のルーツ
大江広元は武士ではなく、都で朝廷に仕えていた官僚であった。大江氏は古代豪族の末裔で、「大江」は名字ではなく姓である。
大江氏は、もともとは土師(はじ)氏という姓の氏族だった。土師氏とは古墳に埋葬する埴輪(はにわ)などの制作を担当した氏族。しかし、次第に埴輪の制作は行われなくなり、奈良時代末期に、桓武天皇から山城国乙訓郡大枝郷(現在の京都市右京区)に因む「大枝(おおえ)朝臣」という姓を賜って大枝氏と改称した。さらに、平安時代に「大枝」を「大江」と改めている。
同じ時期に「菅原朝臣」という姓を賜った菅原氏も同族である。
大江氏は公家となり、菅原氏とともに代々学問で朝廷に仕えた。10世紀末に菅原道真が失脚すると、菅原氏に代わってその地位を高めたが、その後は日野氏の台頭で次第に没落していった。
その結果、平安時代末期の広元の頃には下級の官人であった。広元は当初中原姓を称していた。これは、父が大江維光で一時期中原広季の養子となっていたとも、中原広季が実父で後に大江維光の養子となったともいいはっきりしないが、しばらくは「中原」であったことは間違いない。13人の一人中原親能は兄にあたる。
広元は兄の中原親能が源頼朝と親しかったことから元暦元年(1184)頼朝に招かれて鎌倉に下向、その豊富な知識を生かして鎌倉幕府草創期に活躍した。頼朝の没後は13人の合議制の一員となり、長老として北条義時とともに幕府を切り盛りしている。
広元の子孫が名乗った名字
建保4年(1216)広元は中原氏から大江氏に改称、その子は武家となり、各地に所領を賜ってその地名を名字とした。
広元の二男時広は出羽国置賜郡長井荘(現在の山形県長井市)を領して長井氏、三男宗元は上野国那波郡(現在の群馬県)を領して那波氏、四男季光は相模国愛甲郡毛利荘(現在の神奈川県厚木市周辺)を領して毛利氏、五男忠茂は尾張国海部郡海東荘(現在の愛知県稲沢市付近)を領して海東氏と称している。
また、承久の乱で京方に属して失脚した長男親広の子孫は出羽国村山郡寒河江(さがえ)荘(現在の山形県寒河江市付近)を領して寒河江氏となった。
この中で最も有名なのが、四男季光の子孫である毛利氏である。毛利氏はこの後に越後を経て安芸に土着。戦国時代、子孫から元就が出て中国地方を統一する大大名となり、江戸時代には長州藩主をつとめた。
現在、「毛利」という名字は沖縄と東北以外に広く分布しており、とくに愛媛県に多い。ただし、江戸時代は「殿様と同じ名字は名乗らない」という暗黙のルールがあったことから、山口県には「毛利」は少ない。