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悲しい事故で思い出した熊本西・1985年夏の甲子園

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

 たまたま、である。昨日、必要があってたまたま「高校野球におけるヘルメット」について調べていた。見出し語として辞書ふうに述べると、こういうことになる。

【ヘルメット】

 打者にヘルメットの着用が義務づけられたのは、1960年のセンバツからだ。そもそものきっかけは54年、秋の東京都大会にある。八王子工の木村功君が頭に死球を受け、「大丈夫」と出塁はしたものの、意識がもうろうとしていたのかけん制でアウト。異常に気づいた監督らがベンチに寝かせたが、容体が急変して翌日帰らぬ人となった。東京都高野連はこれを憂慮し、早速事故防止策に着手する。アメリカのリトルリーグで、選手がヘッドギアをつけているのを写真で発見し、運動具店に発注。翌55年夏から、打者に着用を義務づけた。このヘッドギアは帽子の下に着けるのが正式だが、上に着ける選手が多かったという。

 56年、センバツに出場した日大三がそのヘッドギアを持参。野球部長が着用の効用を説明したが「着脱に時間がかかる」と反応が薄く、結局このときの甲子園では使用しなかった。ただこれがきっかけとなって全国で着用が徐々に浸透すると、甲子園でも60年から採用となった。その後63年には走者も着用するようになり、72年春からは片耳ヘルメットが義務化。両耳ヘルメットは94年春からで、09年にはベースコーチも着用が義務づけられた。

王貞治の時代はヘルメット未着用

 確かに。たとえば56年夏、57年春夏、58年春と4回甲子園に出場した王貞治の打席をいま写真で見ると、その頭にヘルメットはない。死球の衝撃は一説には、たとえば球速150キロの場合、1.26mの高さから10kgの重さの塊を落とすのとほぼ同じとか。受けたヘルメットが割れることもあるほどなのに、当時はヘルメット着用という発想がなかったのだろう。僕の野球経験は高校1年までとささやかだが、打撃練習中に先輩のボールが頭を直撃したことがあった。もしヘルメットがなかったら……いま思うとゾッとする。

 こんなことを書いてきたのは、練習試合中の頭部死球による死亡事故が報じられたからだ。18日、熊本西の野球部員が死球を受け、翌日に亡くなった。両耳ガードのあるヘルメットを着用していたが、捕手側に顔を向けてボールをよけたため、ヘルメットがカバーしていない左後頭部に当たってしまったという。

 熊本西については若干私的な思い入れがある。高校野球の雑誌を作っていた85年夏に、甲子園に初出場したのだ。当時、こんなふうに紹介されている。「昭和50年に開校し、野球部創部は昭和51年。3年間野球を続けた選手は秋、春、夏の大会に分けて必ずユニフォームを着せ、全員が一度はベンチ入りを経験する。チームの悩みは練習量。下校時間が夏7時、冬6時。しかも火、木は7時間授業のため、練習時間は1日平均2時間……」。ごく普通の県立高校の部活動が浮かんでくる。現在の状況は詳しくは知らないが、ホームページによると国公立大への進学実績は例年20人以上だ。

21世紀枠の県推薦を受けた矢先

 このときの熊本西は、甲子園でも磐城に勝って1回戦を突破。2回戦で敗れたが印象はさわやかで、当時のエース・廣田太郎君には手記を依頼し、作っていた雑誌に掲載した記憶がある。その学校での、悲しい事故……。日本高野連によると、試合中の死球で高校生が死亡したのは、記録が残る74年以降3例目という。

 熊本西は85年の夏以来甲子園出場はないが、この秋の熊本県大会で準優勝し、九州地区大会でもベスト8入り。県高野連から、来春センバツの21世紀枠推薦を受けている。同校によると、亡くなった球児の母親は、「事故によって推薦を辞退することなく、もし選出された場合は息子の写真やユニフォームをベンチ入りさせてほしい」との思いを伝えているという。先の話だがもし選出された場合、メディアが興味本位の報道をしないことを願う。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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