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侍ジャパンU23、ワールドカップ優勝メンバー・岸本淳希って誰だ?

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

その名は、岸本淳希。敦賀気比出身で、2013年、中日の育成1位で指名された3年目右腕だ。ワールドカップでは、1次リーグのニカラグア戦に初登板すると、アルゼンチン戦、2次リーグの韓国戦、さらに地元・メキシコとの準決勝、決勝と5試合に救援登板。最速146キロの伸びのある速球を武器に、計5回3分の1を6三振無失点に抑える安定感が光った。

プロ入りしてからは話す機会がないが、高校時代には何度か取材した記憶がある。11年の秋、1年生の控え投手ながら福井県大会と北信越大会Vに貢献すると、12年のセンバツで甲子園のマウンドを経験。主戦となった秋には、福井県を制して北信越でも準Vだ。

決勝では栗原陵矢(現ソフトバンク)のいる春江工(現坂井)に惜敗したものの、北信越での内容が圧巻だった。五泉との初戦に6回から登板すると、14打者から8三振。連投の遊学館戦は延長10回を4安打で完封し、上田西との準決勝では、連続無失点を22まで延ばして延長11回を1失点、13三振で完投。春江工との決勝も、自責1で完投している。結局、通算34回を33三振の自責2で、防御率は0.53。打線が湿りがちだったこの大会で、翌センバツ切符をもたらしたのは間違いなく岸本の右腕だった。

当時、こんなふうに語っていたものだ。

「夏の遠征では3連投も経験したし、直球にキレが出てきました」

聞くと、鯖江ボーイズ時代はジャイアンツカップ4強の実績があるが、本人は控え投手。敦賀気比入学時の球速は120キロ台だったが、自らも現役時代投手だった林博美部長によると、

「フォームがいい。これは伸びると確信した」

そこへ「甲子園で活躍する先輩の姿を見て、どうしても背番号1をつけたかった」という強い思いも後押しし、短期間でスピードは20キロアップの145キロ。新チームから、それまでスリークォーターだった腕をやや下げると制球も増した。8月下旬の練習試合では、7回参考ながら高松商を相手に完全試合を演じ、県大会は15回を投げて無失点である。

来季は、もっと大きな勝負の年に

そこから北信越大会準Vを経て、迎えた13年センバツでも岸本の右腕は冴えた。

「完封することしか考えていない。ゼロに抑えれば負けることはないですから」

という強気な発言通り、盛岡大付を完封するなど、4試合33回を自責4でチームを初の4強に導くのだ。準決勝では、優勝する浦和学院に8回5失点で敗退したが、前年のセンバツでは救援で1回4失点したことを思えば、大きな成長だった。事実、指揮官・東哲平監督からは「岸本次第のチームでした」と、絶大な信頼を勝ち得ている。

その年夏は、福井商に準々決勝で敗れ、甲子園出場はならなかったが、闘志を前面に出すスタイルも評価されて中日が育成1位で指名。1年目の14年終盤には、ウエスタンリーグでクローザーに指名され、6セーブで防御率0.77。2年目のウエスタンではチーム最多の34試合登板と経験を積み、今季は派遣された独立リーグ・香川で11セーブという実績が評価されての、U23代表入りだった。

そして、初優勝に貢献。岸本はいう。

「育成契約3年目。もちろん1年目も2年目もそう思ってはいましたが、今年はとくに大きな勝負だと思い、オフの過ごし方から気を遣ってきた」

四国アイランドリーグ・オールスターズで参加した北米遠征で、新しく覚えた変化球・SSFに手応えを感じたことも大きかっただろう。楽天の松井裕樹と同世代。4年目の来季の再契約と、NPBでの一軍マウンドという目標がリアルに見える。なにしろ、ボーイズ時代は控え投手。それが国際大会で優勝することを思えば、一軍のマウンドなどすぐそこじゃないか。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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