フェアリーSで思い出されるある騎手の父子、そして亡き母との物語
父子の人生を変えた別離
今年も1月5日に開幕した中央競馬。その初日に幸先よく勝ち星をあげた黛弘人騎手。1985年11月生まれの現在36歳。明日、行われるフェアリーS(GⅢ)には、思い出があった。
父の幸弘は元騎手。1957年11月生まれの64歳。現在は中野栄治厩舎で厩務員をしている彼の、更に父・文男は大井競馬の元騎手だった。自然と「騎手になりたい」と考えるようになった幸弘だが、文男には反対された。それでも「中央なら」と許可をもらい、77年、保田隆芳厩舎からデビューした。
「騎手試験で騎乗した馬が外ラチに突っ込んでしまい、大腿骨を骨折。当然、試験も不合格だったため同期より1年遅れでのデビューになりました」
82年に結婚すると84年の第一子に続き、85年に生まれた第二子が弘人だった。
弘人は述懐する。
「物心がついた時、父についてよく厩舎へ行きました。だから馬の仕事をしているのは分かっていたけど、騎手が何かを知ったのはもっと後の事でした」
そんな94年、弘人の母の清子が体調を崩した。当時について語るのは幸弘だ。
「『風邪をひいたみたい』と言うのでさほど気にしていませんでした」
しかし、病院へ行くとウイルスに侵されていると判明した。
「アッと言う間に亡くなってしまいました。早く気付いてあげられれば、と後悔しました」
幸弘はそう語り、弘人は次のように言った。
「僕はまだ小学3年生でした。大好きだった母親が急にいなくなり、ただただ悲しかったです」
それから幸弘の奮闘が始まった。平日は朝早くから調教に跨りながら幼い子供2人を学校へやった。競馬に騎乗する週末は人に預けざるをえなかったが、自分の騎乗が終わるとすぐに引き取りに行った。夏場のローカル開催時には、一緒に連れて行った。その時の事だ。弘人は言う。
「北海道開催の時に、父がレースで騎乗している姿を初めてみました」
父のようになりたいと思った。
そんな96年の事だった。夫人を亡くしてから2年ほどで、幸弘は鞭を置く決心をした。
「子供2人をみながら騎手を続けるのは大変で、かねてから親交のあった中野栄治先生に調教助手として雇っていただく事にしました」
同じ頃、弘人は父に騎手になりたい意思を告げた。当時を思い起こす2人の発言は微妙に食い違う。まずは父の弁。
「自分が経験して厳しい世界なのを知っていたので反対しました。自分も父に反対されたけど、当時の父親の心境が分かりました」
一方、息子は一方的に反対されたという印象は持っていなかった。
「『馬乗りは後で良いからまずはスポーツをして体力や勝負勘を養いなさい』と言われたので、野球を始めました」
親子から先輩後輩の関係に
どちらの記憶が正しいかは分からないが、いずれにしろ弘人は中学3年の卒業時に競馬学校を受験。結果、不合格となってしまった。
「高校で馬術をしてから1年後に再受験しました」
今度は晴れて合格。競馬学校ではいきなり大怪我をして長期にわたって休学したため、本来より1年多い4年間で卒業。2006年、父の勤める中野厩舎から騎手デビューをした。弘人は言う。
「この日から父子の関係ではなく、厩舎の先輩後輩になったので、父の事は『黛さん』と呼ぶようにしました」
“黛さん”からは「中野先生の言う事をしっかり聞くように!!」と言われた。ダービージョッキーでもあった師匠の中野から言われた事について、弘人は次のように語る。
「技術面でも教えてもらったけど、常に言われたのは『人には謙虚でいなさい』という話でした」
デビュー後は競馬の厳しさを痛いほど知った。デビュー1、2年目はいずれも2勝のみ。それでも3年目に6勝、4年目は12勝と少しずつ良化。そんな時、事件が起きた。6年目の11年にまさかの油断騎乗で30日間の騎乗停止処分を受けたのだ。当時を思い起こす弘人は「引退も考えたけど、周囲の人に助けられました」と言い、更に続けた。
「その時に騎乗していたメジロガストンのオーナーの北野雄二さんらメジロ牧場の関係者の方々、同馬の大久保洋吉調教師(引退)らが、逆に励ましてくださり、騎乗停止明け後も馬を用意していただけました」
中野からは「失った信頼を取り戻すには今まで以上に謙虚にやっていくしかない」と言われた。その教えを守って乗った弘人に競馬の神様が少しだけ微笑んでくれる出来事があった。
騎乗停止処分の明けた5月。長い歴史に幕を下ろしたメジロ牧場の最後の出走馬メジロコウミョウ(大久保洋吉厩舎)に騎乗した弘人は見事に1着でゴールしてみせたのだ。
「これで恩返しが出来たとは思っていません。むしろお陰で騎手を続けられているという感謝の気持ちが強くなる意味で忘れられないレースになりました」
タッグを組んで重賞制覇
結局この年は14勝。ピンチをチャンスに変えて自身最多勝を記録すると、13年には18勝、14年には20勝と記録を更新。その20勝のうちの1つをマークした中野厩舎の2歳馬がいた。弘人を背に未勝利を勝つとオープンのクローバー賞で2着したノットフォーマル。当時は調教厩務員となっていた父の幸弘が担当する馬だった。
同馬は翌15年にフェアリーS(GⅢ)に挑んだ。早目に先手を奪い1000メートル60秒フラットで後続を引きつけて逃げた。結果、最後まで先頭を譲らず。弘人にとってデビュー10年目で初の重賞制覇を飾った。
「勿論、弘人が勝ったのは嬉しかったけど、厩舎が勝てた事がスタッフとして良かったです」
そう言った幸弘に対し、弘人は次のように語った。
「ノットフォーマルは初重賞制覇だけでなく、僕にとって初のGⅠ騎乗なども経験させてくれました。中野先生や関係者の皆さんには感謝しかありません」
母の墓前にも報告したという弘人。そのバッグでは、今でも亡き母の写真が微笑んでいる。そして、勿論“黛さん”、いや、父にも感謝の言葉を続ける。
「定年まで大きな怪我なく終えてほしいです」
定年は今年の12月。つまりタッグを組めるタイムリミットまで1年を切った事になる。弘人の亡き母も応援しているであろう彼等親子の活躍を願おう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)