大震災後のオークスを勝った今は亡き後藤浩輝。彼が果たせなかった約束
東日本大震災から約2か月後のオークス
東日本大震災で日本中が揺れた2011年。JRAも被災地に義援金を寄附するなど様々な支援を行ったが、ジョッキーの中で先頭に立ってこのような行動を起こした人物の一人に後藤浩輝がいた。競馬場で寄附を募った時は、誰よりも大きな声でファンに呼びかけた。そして自らも賞金の一部を寄附に充てた。雨に煙る東京競馬場で、そんな彼に競馬の神様が微笑んだ日があった。
11年の優駿牝馬、通称オークス(G1、3歳牝馬、東京競馬場、芝2400メートル)は5月22日に行われた。1番人気は牝馬クラシック一冠目の桜花賞を優勝したマルセリーナ。そして2番人気はその桜花賞で2着し、2歳時の阪神ジュベナイルフィリーズ(G1)も2着に善戦したホエールキャプチャ。一方、後藤が騎乗するエリンコート(栗東・笹田和秀厩舎)は単勝37・2倍の7番人気。ダークホースの1頭に過ぎなかった。直前の忘れな草賞で初めてコンビを組み、そこを勝利していた後藤は、オークスを控えて次のように語っていた。
「短距離馬のデュランダル産駒という事で忘れな草賞では前半、行きたがる感じがありました。それでも最後に伸びて勝てたので底力はある馬だと感じたし、折り合いさえつけば距離もこなせると思いました」
ではその折り合いをつけるためにはどうするか? 後藤は一つ一つ段階をおって考えた。
「折り合わせるためにはどうするか?と考えた時、まずは自分の体重を出来る限り彼女に感じさせない事だと思いました。そしてそのためには下半身を突っ張らないようにする事が大切であり、下半身を突っ張らないためにはいかに自分がサスペンションを利かせてあげられるかが重要だと考えました」
これらの思考は本人の当てずっぽうで思いついたそれではなかった。この年から彼はメンタルトレーニングのコーチをつけ、そのコーチの助言を受けながら考えた事だった。想像力と妄想は別物で、後者に陥れば間違った道を進みかねない。ゴールへ向かえるのは前者の強化であり、そのために後藤はコーチを雇ったのだった。
雲に覆われた空から我慢し切れないといった感じで雨粒が落ちて来たのは10レースを前にした時点だった。雨足は強まり、11レースのオークスの時には本降りとなった。
「天候ばかりはどうしようも出来ないので、エリンコートにとって有利とも不利とも考えませんでした。ただ『有力馬の騎手や陣営は心理的に嫌だろうな……』とは思いました」
エリンコートに跨り、返し馬をすると「おや?!」と感じた。
「雨も馬場も全く気にせずにリラックスして走ってくれました。これなら引っ掛かる心配もなさそうだと思いました」
優勝もその後、果たされなかった約束
ゲートが開くとその思いはますます強くなった。好スタートを切ったエリンコートは中団で折り合ってみせた。
「掛かり気味に前で競馬をする可能性も高いと思っていただけに良い意味で想定外でした」
しかし、一つの不安を拭えればまた別の不安が顔を出すのが勝負の現場の常。後藤は思った。
「流れが緩かったのでこの位置では後ろ過ぎる……」
人気のマルセリーナやホエールキャプチャは更に後ろにいたが、有力馬の影に脅える事なく、自らの感覚を信じて3コーナーから仕掛けて動いた。結果、これが“吉”と出る。
「直線では前だけを見て追いました」
しかし、ここでアクシデントが起きる。「照明にモノ見をした」(後藤)エリンコートが強烈に内にササッた。後藤は右から引っ張りながら左鞭を連打し、矯正を図ったがパートナーはかまわずササリ続けた。そして、ラスト300メートルでスピードリッパーと接触すると、更に100メートルを切った後にピュアブリーゼともぶつかってしまった。結果、先頭でゴールを駆け抜けたが、後藤に笑みはなく、当然、ガッツポーズも出なかった。思えば母のエリンバードはオペラ賞で1位に入線しながらも降着となった馬。エリンコートは、2400メートルをこなした事からも父デュランダルより母の血が濃く出た馬だったのかもしれない。しかし、そんな事も後藤には何のなぐさめにもならなかった。レース後、彼は言っていた。
「注目度も高いG1だからこそ綺麗に乗らないとダメなのに迷惑をかけてしまいました。今後はもっとスマートに大レースを勝てるように反省します」
まるで負けたジョッキーのような表情でそう語ったが、東日本大震災の余波がさめやらぬ中、これは競馬の神様から彼に贈られたギフトだと思えたモノである。ちなみにこのオークスではもう1頭、アカンサスという後藤のお手馬が出走していた。直前にスイートピーSを勝利したこの馬の素質も感じていた後藤は直前までどちらに騎乗するかを迷っていたのだが、結果、見事にG1馬をピックアップした。残念なのは「今後はもっとスマートに大レースを勝てるよう」という約束を果たさずに鬼籍に入ってしまった事だ。彼にとって5つ目のJRAのG1勝ちは、自身最後の勲章となってしまったのだった。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)