僕達は君を忘れない。突然引退した藤田菜七子元騎手が目指した騎手像とは……
女性騎手のパイオニア
9月末、共通の関係者のお祝いの宴で、藤田菜七子騎手と席を共にした。遠方での他の用事をこなしてから少し遅れて来場した彼女だが、到着するなり場は華やかな雰囲気で包まれた。競馬場とは違うナナコスマイルを見せる彼女は、どこにでもいる20代の女の子という感じ。僅か10日ほど後、突然、競馬界を去るとは夢にも思わなかった。
1997年、茨城県北相馬郡守谷町(現守谷市)で生を受けた。守谷が東京とトレセンのある美浦の通り道だった事が、彼女の人生に大きく影響した。騎手を目指したきっかけは諸説あるが、私が本人から聞いたのは「高速道路で横腹にオグリキャップと記された変わった形のトラックを見た」から。調べるとそれは馬運車で、オグリキャップは過去の名馬である事が分かり、これがきっかけで競馬を見るようになったという。
こうして男性社会に飛び込むと、16年、美浦・根本康広厩舎から騎手デビュー。JRAとしては久しぶりの女性騎手の誕生という事で注目を浴びる。彼女の一挙手一投足は瞬く間に競馬面を飛び越しさらにはスポーツ面をも飛び越して連日、社会面を飾った。
世界中で騎乗
そして、そんなニュースは国境を越えるのにも時間を要さなかった。
デビュー年の8月にはイギリスで行われた女性騎手招待競走に招かれた。ロンドン市内を観光しながら初の海外騎乗に胸を躍らせたが、騎乗を予定していた馬がパドックで暴れて放馬。出走取り消しになると当時まだ10代だった彼女の瞳から大粒の涙が溢れた。
秋にはアブダビへ飛んだ。イギリスで叶えられなかった海外騎乗の夢を中東で叶えた。フェラーリワールドでジェットスターに乗り、地べたに座って食べる現地のレストランでは、食事をしながら弾けた笑顔が今でも忘れられない。
日本の女性騎手のパイオニア的存在となった彼女に、その後も様々な国から声がかかった。武豊騎手と共に参加したマカオでは、レジェンドから「現在、世間的にジョッキーといえば武豊じゃなくて藤田菜七子だね」と言われ、苦笑してみせた。
19年にはスウェーデンで行われたウィメンジョッキーズワールドカップに参戦。2勝して総合優勝を果たした。レース後の打ち上げパーティーでは他の女性騎手や関係者から祝福を受け、はにかんだ表情を見せたのが昨日の事のようだ。
また、昨年はスペインでの招待競走に呼ばれた。凱旋門賞(G I)の丁度1週間前だったので、そのままフランスへ飛べば調教に乗れるように手配する旨を告げると、二つ返事でこの話に乗ってきた。
「少しでも上手くなりたいので、そのために色々な経験をしたいです。たとえ競馬に乗れなくても行ってみたいです」
希望を宿した目でそう語った。約1週間の滞在で5つの厩舎の調教に乗る事が出来た。そして、犬塚悠治郎オーナーの協力もあり、レースにも騎乗出来た。
今年は2度目となるシャーガーカップに参戦。現地で誕生日を祝ってもらい笑顔を見せたが、競馬では残念ながら勝利する事は出来なかった。すると、心底悔しそうな表情を見せた。お祭り的なイベント要素が強く、負けても笑顔を見せる騎手がほとんどの中、負けず嫌いの性格と騎手として上手くなりたいという向上心が、彼女に唇を噛ませたのだろう。
しかし、これが騎手・藤田菜七子と訪れた最後の海外になってしまった。私の元へもホリー・ドイル、ケイトリン・マリオン、ヘイリー・ターナーやユーリカ・ホルムクロストら彼女と交流のあった世界中の女性騎手から早過ぎる突然の引退を惜しむ声が届いた。本当に残念でならない。
目指した騎手像
騎手デビューした当初、住み込んだ美浦の騎手独身寮には女性用の洗面所が無かった。仕方なく調教前は男性と一緒に洗顔をしたという。まだ何の実績もない頃から無数のカメラに追われ、一挙手一投足が注目された。そのプレッシャーやいかほどだったろう。それらに耐え、JRAの女性騎手として初めて重賞を制し、JRAだけでも166の勝ち鞍をマークした。引退に至る経緯については様々な声が上がっており、それを肯定も否定もする気はない。ただ、彼女が打ち立てて来た記録はその数字以上に讃えられてしかるべきであり、ナナコスマイルと共に多くの人に愛されたパイオニアが別れも言えずに去らなければならなくなったのは残念でならず、今回ペンを執らせていただいた。
以前「どんな騎手になりたいのか?」と聞いた事がある。その時、彼女はキラキラとした目で答えた。
「『格好良い』と言われるような騎手になりたいです!」
未踏の地を、時に汗にまみれ、時に泥だらけになりながら突き進んだ藤田菜七子。最高に格好良い騎手がいた事を、僕達は忘れない。
(文中敬称略・写真提供=平松さとし)