ドイツでデビューし、今年の飛躍が期待出来る日本人ジョッキーのエピソード
JRAの試験に落ちて世界へ飛び立つ
カナダのリーディングを木村和士騎手が獲得するなど、昨今、世界を舞台に活躍する日本人ホースマンが増えている。今回紹介する寺地秀一もそんな1人。今年、ドイツで飛躍の期待出来る騎手だ。
私が彼に初めて会ったのは7年前の2015年。当時はイギリスのニューマーケットで調教に騎乗していた。好きな言葉は“A will finds a way”と言っていた。
「『意思あれば道は見つかる』という意味です」
そんな言葉を体現する彼のここまでの変遷をたどっていこう。
寺地が生まれたのは1995年12月23日だから現在26歳。岡山県で3人兄弟の長男として育てられた。小学3年生の時、親に頼んで乗馬クラブで初めて馬に乗った。
「“風”を感じ、騎手になりたいと思いました」
中学では毎週末、新幹線と電車、更にバスを乗り継いで三木ホースランドパークへ通い、乗馬をした。3年で競馬学校を受験したが二次で不合格。高校入学後も毎年、受験したが全て落ちた。
「高校3年でも受からなかったので、以前、調べたイギリスのニューマーケットへ飛んでチャンスを掴もうと考えました」
「一緒に住んでいた祖母には寂しがられた」が、14年4月に渡英。かの地でまずは英語を教わった。
「1ケ月後にニューマーケット競馬場へ行ったのですが、その広さに感動し、自分の居場所が見つかったと感じました」
3ケ月の語学留学を終えると一時帰国。辻牧場で競走馬に乗りながらビザの手続きをした。
「ビザ取得後の15年3月から再度イギリスへ渡り、競馬学校(ブリティッシュ・レーシング・スクール)に入学しました」
寮住まいで競馬漬けの毎日が始まった。5月にはサーの称号を持つマーク・プレスコット調教師の下に配属された。
「興奮して最初の夜は眠れませんでした。あの“ウォーレンヒル”を駆け上がった時はまた“風”を感じ、初めて馬に跨った時の気持ちが帰ってきました」
名門厩舎での生活は毎日が勉強になり、競馬学校も無事に卒業した。しかし、騎手デビューするためには調教師の許可が必要。これがなかなかおりなかった。仕方なくロジャー・ヴェリアン厩へ移ると、そこで新たな出会いがあった。
「調教では良い馬に乗せてもらいました。また、世界中で乗っていた元騎手のライダーと話していると『色々な世界で乗ってみれば……』と助言されました」
そこで思い切って渡米。マイアミのガルフストリームパーク競馬場で厩舎を回って直談判。フリーランスのライダーとして乗せてもらった。
「アメリカの馬はスピード重視の体格や筋肉。その発達具合がイギリスの馬とは全く違う事が、乗ってみて分かりました」
北米でのデビューも考えた。ビザの都合で何度か帰国したが、その度、また渡米。祖母は毎回悲しみながらも成功を願って送り出してくれた。しかし、米国でのビザ取得は容易ではなく、歳月だけが流れた。
「そこで19年の年明けには決断をしました。お世話になった厩舎の人達に『他の国で騎手になって戻って来ます』と告げて、アメリカを後にしたんです」
ドイツで夢にまで見た騎手デビュー
こうして19年の春にはドイツへ渡った。
「まずは語学留学で渡りました。アテはなかったのでグーグルマップで競馬場を調べて訪ねました」
ミュンヘンの語学学校でドイツ語を学びながら飛び込みで騎手として雇ってくれる厩舎を探した。
「何回か調教に乗ったところ、ミシャエル・フィゲという調教師が認めてくれました」
騎手経験が全く無かったので、ゲート練習やコース実習で経験を積んだ。アマチュアレースや新人しか乗れないレースに騎乗した。その上で調教師か馬主から承認をもらえれば、一般のレースにも騎乗出来るのが、かの地でのシステムだった。
「結果、約3ケ月後に念願の騎手免許を取得出来ました」
日本、イギリス、アメリカ、ドイツと渡り歩き、ついにジョッキーになれた。すると……。
「フレンドリーに話してかけてくれる若いライダーがいました。しかも日本語で挨拶をしてきたので驚きました。聞くと、日本で調教に乗った経験があるとの事でした」
後に凱旋門賞(GⅠ)を勝つレネ・ピーヒュレク騎手だった。
「友好的なだけでなく、騎乗フォームも格好良いし、一つ一つの動作が適格で、追う姿勢も無駄がない。彼のような騎手になりたいと思うようになりました」
20年8月、ついにデビューの日を迎えた。調教師のフィゲが馬主も兼ねる馬で夢にまでみたレースに初騎乗。すると……。
「初騎乗初勝利をおさめる事が出来ました」
夏デビューだったため1年目は3勝に終わった。しかし、2年目の21年は年明けのダート開催でいきなり4勝。芝シーズン開幕後も順調に勝ち鞍を増やし、最終的には23勝。ドイツリーディングの14位という成績を残した。
更なる飛躍を求めトップトレーナーの下へ
「ミシャエルによくしていただき勝つ事が出来ました。ただ、更なるジャンプアップをしたいので、今年はピーター・シールゲンの下でお世話になる事にしました」
シールゲンはドイツのホースマンなら誰もが憧れるトップトレーナー。ケルンにある厩舎には女性ながらトップジョッキーの1人であるS・フォックや2年連続チャンピオンジョッキーとなったB・ムルザバエフらが所属。他にも現在はイギリスへ行っているがデニス・シールゲンも所属しており、寺地は騎乗する前に激しい競争をしいられそうだ。
「そのあたりは覚悟をした上での移籍です。こういう環境で多くの事を学びながら実績を積み、いずれはレネのように凱旋門賞を勝ちたいし、武豊さんのように日本のGⅠも勝てるようなチャンスを掴みたいです」
そう語る寺地には冒頭で記した“A will finds a way”以外にももう1つ、好きな言葉がある。
「『騎道』です。似ているのですが“険しいけど努力すれば必ず拓ける道”だと解釈しています」
日本で応援する母から贈られたこの言葉を胸に、19年にドイツ入りしてからは1度も帰国していない寺地。日本を離れた約半年後には祖母が他界したが、その際もドイツにとどまった。
「祖母は最後まで凄く応援してくれたので、騎手としての晴れ姿を見せられなかったのは悔しいです。だからこれから少しずつでも恩返しが出来るように頑張ります!!」
海の向こうにいる日本人ホースマンが、日本に残る両親と天国の祖母に朗報を届けられるよう、応援したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)