[高校野球]あの夏の記憶/1985年。清原和博よりもホームランを打った男がいた
64本。これ、PL学園高校時代の清原和博(元オリックスほか)が、練習試合も含めて3年間で記録した本塁打数である。清原が高校3年だった1985年。同年代に、清原を上回り、当時史上最多の78本塁打を放った男がいた。しかもPLと同じ、大阪の此花学院(現大阪偕星学園)。しかもしかも、両者は85年夏の大阪大会、準々決勝で対戦しているのだ。
「そりゃあマスコミの方は、清原とライバルという図式を作りたかったでしょうね」
とその男・田原伸吾さんはいった。
「ただ、僕自身はそんなに意識はしなかったです。清原は試合数も少ないでしょうし、練習試合でも強い相手としかやりませんから、本数だけで単純比較はできないですよ。というよりそもそも、当時のPLといえば、何人もがプロになるんですから、歴代最強でしょう。それに対してわれわれは、比べるのもおこがましいチームでしたから」
卒業後は明治大、さらに社会人の強豪・熊谷組からTDKで活躍し、むろん都市対抗にも出場している。野球を始めたのは、大阪・堺リトルリーグだった。田原さんによると、「伯父が、堺でバッティングセンターをやっていたんです。この伯父という人は、東京オリンピックに出た陸上選手なんですが、器用な人で自分でマシンを作っていた。それが、眉ツバかもしれませんが160キロ出るというふれこみで、確かにすごく速いんです。でも、そのタマを平気で打っていました」
中学の堺シニアでは、全国大会にも出場。岸和田シニアに在籍していた清原は、当時から評判の選手で、「中学時代から、大人の体をしていたという印象があります。ただ、何回か対戦はしているんでしょうが、あんまりその記憶はないですね」。
審判が見失った? 幻の一発
卒業後は、熱心に誘われて83年に此花学院へ。野球部を強化しようとしていた時期で、同期には米崎薫臣(元阪神)ら、資質の高い選手も何人かいた。田原さんも、練習からフェンス越えの当たりを連発。しかも、フェンスの外がすぐ崖になっているため、サク越えのボールはあきらめるしかない。それじゃあ、いくらボールがあっても足りないから……と、練習では木のバットを使った。ボールを飛ばす天性があったのだろう、すぐに試合に出るようになった。
「2年のときですかね。プロのスカウトの方が来られて、"飛ばす能力がある"といってくれたらしいんです。自分でもそれを意識してみると、確かに実際、人よりも飛んでいましたね。ただ、だれに教わったわけでもないし、特別な練習をしたわけでもないんですよ。親からもらった能力、としかいいようがありません」
本塁打数は1年で18本、2〜3年で30本ずつ……というのが、田原さんの大ざっぱな記憶で、3年になるころには、野球を生活の手段にできるのかも……と考えるようになった。本塁打数ではずっと、清原を上回っていたから、マスコミにも早くから注目され、よく比較されるようになった。田原さん自身が記憶に残る一発もある。
「というより幻の一発なんですが、3年の夏、日生球場での美原戦です。2回戦(盾津)、3回戦(大商大付)と連続でホームランを打って、この試合もライトへ完璧な当たりを打ったんです。当時日生球場には、近鉄にいたマニエルの場外弾を防ぐマニエル・ネットがあって、僕の打球はそれを越えたんですよ。高校生ではなかなか越えない、それだけ大きい当たりでした。ですが、審判の判定はファウル。見慣れていないからか、打球を見失ってしまったんですね。あれがあれば、僕の通算ホームランは79本になっているところでした(笑)」
そして85年夏、「別格」のPLと当たった準々決勝は、1対5で敗れた。清原にはタイムリーを打たれ、打線も9回まで桑田真澄(元巨人ほか)に無得点。9回2死一塁で田原さんが二塁打を放ち、一矢は報いた。
「手応えがよく、"ああ、入ったな"とベースをゆっくり回っていたんですが、日生球場の高いフェンスの一番上に当たり、あわてて二塁まで走りました。それでなんとか1点取るんですが、あの当時の桑田は、とにかくカーブがすごく、高校生のタマじゃなかったですね。打った球種? もちろん、ストレートですよ(笑)」
結局、高校3年間ではこのときのベスト8が最高で、甲子園には出ていない。それはそうだ、なにしろ在学中の3年間は、KKのPLが5季連続出場するのだから。ただ、と田原さんはいう。「甲子園を目標にしてはいたんですが、僕自身は甲子園にそんなに意識はなかったですね。高校時代は原点であり、いい思い出ですが、すべてではありません。高校を出てからの人生のほうがはるかに長いわけですし……」。大学、社会人と野球を続け、いまは海外赴任でバリバリと仕事をこなす田原さんらしい。
実は、この取材をしたのは13年ほども前のこと。最近、SNSで見つけてくれた田原さんと久々に"テレ会話"をしたので懐かしくなり、再構成してみたわけです。