小室眞子さんと圭さんの10月26日の結婚会見を週刊誌などメディアはどう報じたか
大きな話題となった10月26日の小室眞子さんと圭さんの結婚会見。これまでの週刊誌のバッシング報道が俎上にあげられた形になったことも含めて、いろいろな議論を引き起こした。会見をめぐる経緯についてはまだわからないことも多々あるのだが、現状で何が問題になったのか書いておこう。
「眞子さま」が突如「眞子さん」になる違和感
その前に、まず「眞子さま」が皇籍離脱した瞬間に「眞子さん」になるという報道における呼称のあり方が気になって仕方ない。いやそうするのがマスコミの慣習と、前例にならってそう処理されているのだが、気になるというのは、そのことが議論にもなっていない現実についてだ。例えば『週刊朝日』11月5日号は、その結婚前に発売されるからだろうが、特集タイトルは「拝啓 眞子さま小室圭さん 私たちからの『祝辞』」と「眞子さま」呼称だ。それが突然、結婚を機に新聞・テレビに「眞子さん」呼称が広がるのだが、この皇室敬語の変わりように、何の説明もされていないように見える。
ちなみに私は、これまで二人を取り上げる際に「眞子さま」「圭さん」と片方だけ敬語をつけることに記事を書くたびに違和感を感じてきた。ただ新聞社などではそれが決まりだから、この問題について相当書いてきた東京新聞の連載コラムなどで敢えて「眞子さま」でなく「眞子さん」と書いてもデスクが困るだけだからと、ほとんどマスコミ界の慣習に従ってきた。皇室敬語はある種の「記号」と割り切ることにしてきたわけだ。
でも今回のいわゆる「眞子さん圭さんバッシング」騒動が象徴天皇制と結びついた問題だという指摘を含め、皇室や天皇制をめぐって、もう少しマスコミは問題に踏み込むことが必要なのではないかと常に感じて来たし、それを表明してもきた。
さてそうした問題はここでひとまず措いて話を先に進めよう。
対照的な『週刊朝日』と『女性セブン』
今回の結婚会見をメディア、特にこれまでバッシングを続けてきた週刊誌はどう報じたのか検証してみよう。
ちなみに前出の『週刊朝日』11月5日号の大きな特集だが、「拝啓 眞子さま小室圭さん 私たちからの『祝辞』」。識者などからのお祝いメッセージを掲載したものだが、何とお祝い一色の誌面だ。同誌も一時期はバッシング風の流れに載ってしまっていた。この1カ月ほどの状況変化の中で、バッシングとは一線を画そうと、『サンデー毎日』とともに舵を切っていたのだが、結婚を機に、ここまで一気に、お祝いモード全開になってしまうのにも少し驚いた。
一方で結婚後もあくまでもバッシングを続けるのは『女性セブン』11月11・18日号だ。「小室圭さん花嫁の『祖父重体でも延期拒否』計算ずくの9分間」「眞子さんを手ぐすねひく『ニューヨークの黒幕』」「小室圭さん母『偽名で働いた』潜伏の軽井沢」。ここまで意地悪な見出しを連ねるという姿勢にはある意味で感心する。
例えば「ニューヨークの黒幕」とは何かといえば、眞子さんの元皇族という立場を利用しようという人間がニューヨークでも接触してくる可能性があるという見方を示したもの。別に特定の「黒幕」がいるという話では全くない。それがこのおどろおどろしい見出しになってしまうのがすごい。
『週刊文春』『週刊新潮』は会見の舞台裏を
『週刊文春』11月4日号「眞子さん小室さん『世紀の会見』全真相」と『週刊新潮』11月4日号「『小室眞子さん・圭さん』質疑拒絶の全裏側」は、会見の舞台裏を書いたものでなかなか興味深い。
今回の会見は、事前提出の質問5問のうち3問を宮内記者会から、残り2問を外国特派員協会と日本雑誌協会から提出したのだが、その雑協からの質問に眞子さんが反発したのだった。
25日になって突然、翌日の会見での質疑の取りやめが宮内庁から記者会に伝えられ一時紛糾したらしい。ただ『週刊文春』によると、雑協の質問が決定したのは15日。18日には眞子さんに示されていたはずなのに、直前になってそうなったのは理解できないという。
今回の会見と宮内記者会の関係は
従来、皇族会見はほぼ宮内記者会に限定されていたが、今回は雑協にも開放された。たぶん眞子さんが皇籍離脱した会見だから、全面的に宮内庁が仕切るというわけにはいかないという判断だったのだろう。それ自体は良いことだが、それが裏目に出て紛糾してしまったわけだ。雑誌界の主流はバッシングの立場だったわけだから、その報道の流れを見れば当然そうなるわけだが、会見主催者側ではそこまで細かいチェックなどはできない、雑協を入れる以上、そうなることはある程度仕方ないと考えたのだろう。
そのへんは、皇室報道のあり方を考えるうえでも興味深い。今後の皇室報道のあり方を考えるためにも、今回の会見をめぐる経緯は詳細に検証されるべきだと思う。