五体満足なのに、何が不満なの? 感謝しなさいよ。幸せを感じなさいよ。
こんにちは。
精神医学と性格心理学に詳しい
心理カウンセラー(公認心理師)の竹内成彦です。
今日は、精神病(統合失調症・双極性障害・うつ病)に罹った、AさんBさんCさんDさんEさんの5人を足して、5で割って、さらに私の創作を含めた、架空上の人物であるXさんに、心の病の辛さや苦しさを語ってもらいたいと思います。
~ ここから ~
「僕は、子どものときから、あまり笑わない子どもでした。身体も弱く、心も弱く、同年代の賑やかな子どもと接することがあまりにも苦痛で、幼稚園は2週間で中退しております。
幼稚園に行ってない僕は、小学校では、入学当時から、人間関係で躓きました。でも、そんなんでは生きるのが自分自身、あまりにも困難なので、小学校時代からお笑いの本を読み、人を笑わせる術を習得し、小学校の2~3年生ぐらいからは、それなりに友だちを作ることにも、まずまず成功しました。このあたりに関しては、僕が子どもの頃から、読書家だったのが幸いしたのだと思います。
小学校の頃、クラスで酷いいじめに遭い、自殺しようと思いました。自分がいじめられていることは、親にも先生にも誰にも言えませんでした。
僕が自殺しなかった理由は、【死んだらどうなるか?】という本を読んだからです。僕は、その本の中身にショックを受け、次々に似たような本を読んだのですが、どの本の中にも、『自殺すると地獄(のようなところ)に堕ちる』というようなことが書かれてあったのです。
僕は、『生きていてもこんなに苦しいのに、死んでも苦しまなければならないのはかなわないな』と思いました。それで、自殺するのを取りやめました。と同時に、その頃から、お迎え(自然な死)が来るのを楽しみにするようになります。
中学に入った僕は、柔道部に入りました。柔道部に入った理由は、『親に経済的負担をかけたくないから』という理由でした。他の部に入ると、あれこれお金がかかりそうで、僕には、それが嫌だったのです。『柔道部だったら、夏も冬も同じ服でいいし、お金のない親に余計な負担をかけなくて済むだろう』と思ったからです。
中学・高校の頃は、比較的、メンタルが安定していたと思います。理由は、今思い返せば…ということなのですが、ずっと柔道をやっていて、それがよい運動療法になっていたからだと思います。運動療法は脳にいいですね。
高校を卒業するとき、大学に行こうか迷ったのですが、家の経済的事情を鑑みて、就職することにしました。そして僕は、寮がある会社に就職しました。僕は、愛のない家を出たかったのです。ひとり暮らしは、快適でした。仕事は工場での流れ作業という単調でつまらないものでしたが、自分が自由に使えるお金を手にし、僕はそれなりに幸せでした。
働き始めて2年ぐらい経った頃、僕は初めて、本格的なうつを発症させます。その時は、自分の身に何が起こっているかわかりませんでした。とにかく朝が辛く、起きた瞬間から絶望感を覚えていました。1日中、鬱々とした気分を抱えていました。
僕の異変には、誰も気付きませんでした。その頃の僕は、親兄弟にはほとんど会ってなかったですし、会社では得意のジョークで人を笑わせる明るい男を演じていましたから…。
20代の半ば頃、いよいよ生きるのが辛くなってきました。ずっと抱えていた希死念慮が自分の中で、どんどん大きく広がっていきました。自分でも、『何が辛いのか?』わかりませんでした。仕事は順調で、それなりに人間関係も良かったからです。
僕は、意を決してメンタルクリニックへ行きました。そこで、神経衰弱と言われ、抗精神病薬を処方されました。今思えば、抗精神病薬で良かったです。あのとき、間違って抗うつ薬を処方されていたら、もっと症状が悪化したと思われるからです。← 数年後、僕は、神経衰弱からうつ病と診断され、そして双極性障害だと診断されるようなります。
薬は、少量飲むだけだったのですが、僕には大変によく効きました。ネガティブな気持ちがかなり薄らぎ、あの嫌な憂鬱感もかなり低減されました。
20代の終わり頃、まだまだ薬を飲み続けていた僕ですが、人並みに恋愛をし、結婚をしました。相手は地方から出て来た、僕より2歳年下の女性でした。とても可愛くて明るい女性でした。彼女は、結婚してからもしばらく働いていたのですが、妊娠を機に会社を辞めました。僕は、『僕ひとりの給料で、家内と子どもを養っていけるだろうか?』と、少々不安でしたが、家内が専業主婦を望んでいたこともあり、『節約すれば何とかやっていけるだろう』と思っていました。
子どもが生まれたときは、とても嬉しかったです。『この世に、こんな幸せな気持ちになることがあるだろうか?』と思ったくらいです。でも、その時から、家内は一変しました。それまでは、僕の話(嬉しかったこと、哀しかったこと等)を熱心に聴いてくれる家内だったのですが、出産を機に、僕に対する関心はゼロになりました。子どもに夢中で、僕の話を全く聞いてくれなくなったのです。僕は、家内を独占する自分の子どもを、憎らしいと思ったことは1度もないですが、僕と目さえも合わせようとしない家内に対しては、大きな失望感と不満を持つようになりました。
僕は、抗精神病薬を飲みながら、30代に突入し、ますますたくさんの仕事を任されるようになりました。家に帰ると、家事と育児の手伝いです。僕は、仕事で遅く帰ることもありましたが、出来る限り、家事も育児も自分なりに一生懸命に手伝いました。家内の口癖は、『私はワンオペで育児を頑張っている』というもので、僕は、それを言われるたびに、胸がチクチクと痛みました。
その頃から、僕のメンタルは、徐々に悪化していきました。10年ほど通っている医師に、そのことを伝え、薬を増やしてもらいましたが、今度は副作用(仕事中に、頭がボーッとしてしまうのです)にやられるようになり、『これ以上、薬は増やせないな』と思いました。
医師からは、休職するよう勧められましたが、家計のことを考えると、とてもそんなことをする勇気や余裕はなく、また10年以上も鬱で苦しんでいる自分が、数ヶ月会社を休んだところで、病気が良くなるとも思えませんでした。
日に日にメンタルが悪化し、希死念慮に苦しめられている僕は、ある日、家内に打ち明けたことがあります。「もう少し、僕にも優しくしてくれないかなぁ」と…。すると家内は、いきなり不平・不満をぶちまけました。身体が丈夫とは決して言えない家内は、家内なりに一生懸命、家事や育児を忙しくやってくれていたようです。そして家内は、僕が、日々暗い顔をしていることや、毎月メンタルクリニックへ通っていることを良く思っていなかったようでした。家内からは、『あなたは、五体満足なのに、いったい何が不満なの?』とキツイ口調で言われました。
僕は、何も言い返すことが出来ませんでした。僕には、何も不満などありません。仕事は順調。人間関係にも恵まれ、結婚もし、可愛い子どもを授かることが出来、ストレスらしきものさえありませんでしたから…。
僕は、心理カウンセラーの先生いわく、『あなたの場合は、心因性の精神障害ではなく、内因性の精神障害なのですよ』とのことだそうです。『ストレスが原因ではなく、脳内神経化学伝達物質の異変が原因で、気持ちが落ちているんですよ』とのことだそうです。
世の中には、目が見えなくって不便な思いをしてらっしゃる人がいます。耳が聞こえなくって不便な思いをしてらっしゃる人がいます。その他、足が不自由な人、手が不自由な人もいます。僕は、こんなとを言って、非常に申し訳ないのですが、彼らはわかりやすくて、周囲から理解されやすくていいなぁ…と思います。正直、羨ましいです。
僕は、パッと見、まるで普通です。ただ不満を抱えているだけの、贅沢な人のように見えます。家内いわく、『みんな辛い思いをしながら、頑張って生きているんだよ。あなただけじゃないのよ』とのことです。
僕にとって。死は大変に身近な存在です。そりゃ、痛いの熱いのは嫌ですが、死が怖いなどと思ったことは1度もありません。今日も僕は、お迎えが来るのを楽しみに生きています。『自殺しないで、お迎えが来るまで生きる』それが僕の、今生の最大の望みであり希望であり目標です。あと何十年生きればいいのか、わかりませんが、僕は今生を、会社のため家族のため、一生懸命に働いて、生きていこうと思います」
~ ここまで ~
多くの人は、重篤な精神病にかかり、希死念慮を抱えている人のことを、自分の苦悩と照らし合わせて理解しようとしています。統合失調症や双極性障害やうつ病の方が持つ苦悩は、健常者が想像する苦悩とは、桁が違います。彼らは、「死にたい」とか、「〇〇したい」とかいう希望にも似た欲求を持っているわけではありません。彼らは、「もうこれ以上、生きていくことはできない」「死ぬより他ない」という絶望的な気持ちを持っているのです。
彼らに、どうぞ、「死にたいなんて贅沢だ。世の中には、生きたくても生きられない人も、たくさんいるんだよ。もっと感謝しなさいよ。幸せを感じなさいよ」等という言葉を投げかけないでやって下さい。彼らは、生きたくないのに、懸命に生きているのですから…。
ひとりでも多くの方が、パッと見、普通に見える、彼ら精神障害者の苦悩を理解してくれることを、心理カウンセラーの私(竹内成彦)は、祈ってやみません。
今日も最後までお読みくださって、どうもありがとうございます。
心から感謝申し上げます。
この記事を書いた人は、心理カウンセラー(公認心理師)の竹内成彦です。