「言論の自由」「表現の自由」を心の問題から考える:宗教と思想、歴史と文化と、心理学
■アジア歴訪中のローマ法王、「言論の自由にも限度」
イスラム過激派がフランスの風刺週刊紙シャルリー・エブド本社を襲撃し12人を殺害した事件について、記者団から意見を問われたローマ法王は次のように答えています。
この記事に次のようなオーサーコメントを書きました。
何事においても、自由を守るためには、節度が必要だろう。私の「自由」を守るためには、相手の自由と人権を守るのも当然だ。しかし難しいのは、だから一切の宗教批判は許されないとなっては困る点だ。法王ももちろんそんなことをおっしゃっているわけではない。微妙な問題を言葉で表し法律ですべてを決めることは困難だ。
心理学的にいえば、「自由」は、その人の意志を健康的に働かせるかどうかにかかっている。周囲に流されたり、依存したり怯えたり、怒りに我を忘れたりしている状態は、本来の自由ではない。
時には、弾圧を恐れず、常識に縛られず、言論の自由を行使する。また時には、思いやりと配慮を持って表現を控えたり、工夫をしたりする。世界中の人たちが、言論と表現において本当の自由を得られるように、私も祈りたい。
(碓井 真史Yahoo!ニュース オーサー2015/01/16 )
■それぞれの思想宗教、歴史文化
今回のテロを肯定することはできません。「言論の自由」は大切に決まっています。同時に、「自由」は何をやっても良いわけではないことも、私たちは知っているはずです。
シャルリーの最新号の風刺画には、アフリカでも大きな抗議行動が起きています(“風刺画”反発広がる アルジェリアでデモ 日テレNEWS24 2015年1月17日)。
言論の自由をどこまで認めるのか。どこに線を引くのかは、それぞれの文化と歴史の中で、議論され続けてきました。フランスは、以前から宗教に対する辛らつな表現には寛容だったようです。一方、テロ発生後、テロを擁護する発言をしたとして54名が逮捕されています。コメディアンまで逮捕されています。ちょっと日本人である私には理解できません。
日本も、宗教をちゃかすような表現は良く見られます。CMに面白おかしい仏様やキリスト様が登場したりします。だからといって、あまり抗議の声は聞こえません(ある特定宗教団体への批判はタブー視されている面もあるでしょうが)。
イギリスでは、国営放送のBBCで、王室をユーモラスに扱うこともあります(昔、「モンティーパイソン」で見ました)。日本のNHKが皇室をそんなふうに扱うことは考えられないでしょう。
「自由の国アメリカ」でも、9.11同時多発テロのあと、国民的な一致と盛り上がりの中、反戦Tシャツを着ていた女子高生が退学に追い込まれています。ラジオで反戦の意見を述べた歌手の歌が、放送されなくなったりもしました。
それぞれの、宗教と思想、歴史と伝統の中で、様々な常識や習慣ができ、法律が作られてきました。またその時々の状況によって変化もするでしょう。制限が行き過ぎれば、民主主義の根幹である言論の自由が脅かされます。しかし何の制限もなければ混乱が生まれるでしょう。
■心理学的な自由とは
ここでは法律ではなく、心理学で考えます。
オレは自由だと言って、他人を侮辱し名誉を毀損すれば、法的にも罰せられますが、それは心理学的にも「自由」だとは思えません。何かストレスがあって、八つ当たりしているのかもしれません。恨みや怒りで、冷静さを失っているのかもしれません。
とても健康で幸せな少年が、誰かの悪口を言っていじめ続けることは考えにくいでしょう。さらに、その少年の周りで調子に乗って一緒に悪口を言っている子どもたちも、健康的ではありません。
このようなことは、大人の世界でも起こるでしょう。心の底で恐怖や不安を感じ、自分を防衛しようとして、わざと強がって相手を攻撃することもあります。誰かをバカにすることで、歪んだ優越感を抱くこともあるでしょう。
これらの発言は、心理学的に言えば、解放された健康的な心による「自由」な発言ではありません。
アルコール依存症の人が、「オレは自由に酒を飲んでいるのだ」と言っても、心理学的に言えば、本来の自由ではなく、依存症のために飲まないではいられない状態だと判断します。
「言葉」は、コントロールするのがとても難しいものです。
「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」。(聖書ヤコブの手紙)
政府による弾圧、巨大な宗教、企業などによる圧力。空気とか雰囲気など、私達の心を縛るもの。その力に負けてしまえば、「自由」は失われます。また、私達の心の中の恐れ、憎しみ、妬み、恨み、侮蔑、復讐心、劣等感などで、心の健康を失っての言葉も、「自由」ではありません。
私達が、本当の意味の「言論の自由」を勝ち取ることを、私も法王とともに祈り、願いたいと思います。
もちろん、心の問題だけで言論の自由問題は、解決しません。シャルリーは、不健康な心で風刺を行ってきたわけではないでしょう。シャルリ・エブドのテロを免れた漫画家リュズは語っています。
「我々は例えば平和の鳩のようにある価値観が象徴化されることに対して闘ってきた。ところが今我々自身が象徴化されてしまった。死んだ仲間達はこのような全体一致の賛美は望んでいなかっただろう」。
言葉も市民運動も、とても大切です。力があります。でもどちらも、正しい制御は難しいのでしょう。