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夏連覇経験者、プロOB……個性的な監督たち センバツの話題その5

楊順行スポーツライター
龍谷大平安・原田英彦監督も名物監督の一人(写真:岡沢克郎/アフロ)

 東京からこのセンバツに出場するのは、10年ぶりの国士舘。率いるのは過去、1983〜2005年まで指揮を執り、国士舘大の監督を経て09年に復帰した永田昌弘監督だ。前任時は春7回、夏1回の出場があり、2度の春ベスト4を含め9勝を挙げている。

 かつて聞いた話を思い出した。中京大中京(愛知・当時は中京)時代の75年、チームはセンバツに出場し、自身も背番号11でベンチ入りを果たしている。組み合わせ抽選の結果は、開幕カード。岡山の倉敷工との対戦だった。試合は、倉敷工が4回表までに13対2と大量リード。だが中京も負けじと反撃し、4、5回で9点を挙げるなど、にぎやかな打撃戦となった。結局終わってみれば、15対15の9回表に倉敷工が1点を勝ち越して決着がついている。高校野球は、前年の74年夏から金属バットの使用を解禁しており、このセンバツは初めて金属バットが使用されたのだが、16対15という結末は、まるでその象徴のようだった。

 ここからはうろ覚えなのだが、永田監督は確か、この試合の詳細を記憶していないのではなかったか。試合前のシートノックで打球が当たったかなにかで、病院に行ったか医務室で安静にしていたか……そのどちらかだ。なにしろ、その笑い話を聞いたのは30年以上前のことなので、あやふやなのはご勘弁を。

松井秀喜の打球に口をあんぐり

 永田監督同様に、自身も甲子園を経験している監督や部長は数多い。もっともきらびやかなのは、初出場・札幌大谷(北海道)の五十嵐大部長でしょうね。駒大苫小牧(北海道)が、04〜05年と夏を連覇したときの内野手だ。おもにサードを守った2年時は、九番として19打数8安打と大活躍している。東邦(愛知)の森田泰弘監督も、77年夏の準優勝メンバー。東邦はバンビこと1年生の坂本佳一投手の好投で決勝まで進出したが、東洋大姫路(兵庫)との延長10回、史上初めての決勝戦のサヨナラ本塁打で涙を飲んだ。

 履正社(大阪)の岡田龍生監督は、中学時代はバレーの選手だったが、その東洋大姫路時代に本格的に野球を始め、79年のセンバツでは主将としてベスト4入りに貢献している。この岡田監督のように、高校時代に甲子園に出場しながら、母校以外の監督としてこのセンバツに出場するのは国士舘の永田監督、ほかに船尾隆弘監督(札幌大谷、出身は函館大有斗)、佐川竜朗監督(津田学園・三重、出身はPL学園)、川崎絢平監督(明豊・大分、出身は智弁和歌山)、畑尾大輔監督(日章学園・宮崎、出身は九州学院)がいる。

 21世紀枠で出場の石岡一(茨城)・川井政平監督もその一人で、なかなか貴重な体験をしている。竜ケ崎一(茨城)の2年だった91年夏に甲子園に出場し、益田農林(島根)との初戦を突破。だが次戦、松井秀喜が2年だった星稜(石川)に3対4で惜敗した。この試合、松井は右中間に試合を決定づける2ラン。「ピンポン玉とは、あのことでした」とは、当時ショートを守って口をあんぐりさせた川井監督の回想だ。その星稜・林和成監督は、松井の1学年下。92年夏、明徳義塾(高知)に松井が5敬遠された試合に、二番・ショートで出場している。この試合の星稜は2対3で敗退するのだが、星稜の2点はいずれも林監督がホームを踏んだものだ。

社会人野球経験者が目立つ

 社会人野球経験者が多いのも最近目立つ傾向で、クラブチームを含めると札幌大谷・船尾、東邦・森田、津田学園・佐川、龍谷大平安(京都)・原田英彦、履正社・岡田、松山聖陵(愛媛)・中本恭平、明豊・川崎、日章学園・畑尾各監督がこれにあたる。

 忘れていた。智弁和歌山の中谷仁監督も、キャリアはすごい。なにしろ96年のセンバツ、97年夏と2度の全国制覇を経験しているのだ。ドラフト1位で阪神に入団した98年から12年までをプロで過ごし、17年からコーチとして母校に赴任。高嶋仁前監督の退陣を受け、甲子園で初めて振る采配が注目される。

 いずれにしても、だ。主役は高校生なのだが、名物監督の存在がいっそう球趣を盛り上げるのもまた事実。あなたのお気に入りは誰ですか?

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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