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『長篠合戦図屏風』は、設楽原の戦いを忠実に描いたものではない

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
長篠設楽原 長篠 古戦場。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、設楽原の戦いが描かれていた。設楽原の戦いを検証する際は、『信長公記』といった史料が用いられるが、『長篠合戦図屏風』も根拠として使えるのか考えてみよう。

 天正3年(1575)5月21日、設楽原で織田・徳川連合軍と武田軍が戦った(設楽原の戦い)。その模様は、『長篠合戦図屏風』にも詳しく描かれているが、史料として用いて差し支えないのだろうか。以下、小口康仁氏の研究をもとに考えてみた。

 設楽原の戦いを描いた屏風絵は、13の作品が伝わっている。そのうちもっとも古いのは、『長篠合戦図屏風』(名古屋市博物館所蔵)である。この作品は、17世紀前中期頃に完成したと考えられているが、合戦の生々しい表現を避けているという。

 犬山藩主の成瀬家に伝来した『長篠合戦図屏風』(犬山城白帝文庫所蔵)もよく知られた作品で、17世紀中期に成立したと考えられる。戦国合戦図屏風は『長篠合戦図屏風』を含め、戦場における武将の活躍ぶりを描くことに力を入れている。

 小口康仁氏によると、成瀬家本『長篠合戦図屏風』を制作する際、『甲陽軍鑑』、小瀬甫庵『信長記』などの軍記物語だけでなく、ほかにも絵図などが数多く参照されたのではないかと推察している。後世に制作したのだから、止むを得ないことである。

 そもそも成瀬家本『長篠合戦図屏風』はかなりの時間を経て成立したので、設楽原の戦いを絵師が直接見ながら描いたものではない。絵師は織田・徳川連合軍と武田軍の布陣、武将たちの生き生きとした活躍ぶりを描くため、とりわけ軍記物語の記述を参考にして描いた。

 『長篠合戦図屏風』は写真を撮ったかのように合戦を描いたのではなく、内容豊かに描くため、軍記物語などの諸史料を参照したのだから、『長篠合戦図屏風』を根拠として、織田・徳川連合軍の「鉄砲の三段撃ち」、武田軍の「騎馬隊」を論じても意味がない。

 ましてや、参照した『甲陽軍鑑』、小瀬甫庵『信長記』は、史料としての質が劣るのでなおさらである。『長篠合戦図屏風』は美術史上の価値こそ認められるが、歴史史料として用いるには不適切なのである。

主要参考文献

小口康仁「成瀬家本「長篠合戦図屏風」における図様形成の一考察 : 絵図から屏風へ」(『日本近世美術研究』3号、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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