生涯を争乱に明け暮れ、最期は一向一揆に敗れ自害した武将とは?
応仁・文明の乱を境にして、我が国は戦国時代に突入したといわれている(戦国時代の始期は諸説あり)。同じ頃、加賀を支配した富樫政親は生涯を争乱に明け暮れ、最期は一揆勢に敗れ自害したので、その経緯を取り上げることにしよう。
政親が成春の子として誕生したのは、康正元年(1455)のことである。当時、加賀国では富樫氏が勢力を二分しており、成春が加賀の北半国を、泰高(政親のおじ)が南半国をそれぞれ守護として支配していた。
長禄2年(1458)、幕府は赤松政則に加賀の北半国守護職を与えたので、成春は支配権を失った。応仁・文明の乱が始まって以降、政則は播磨・美作・備前の守護となった。その後、政親が加賀の北半国の守護となり、泰高と対立したのである。
文明6年(1474)、政親は本願寺門徒の支援を受け、家督争いをしていた弟の幸千代を破った。幸千代は、真宗高田派門徒らの支援を受けていた。これにより、政親は加賀一国を支配することになったのである。ところが翌年、政親は本願寺門徒らで構成される一向一揆と戦い、これに勝利した。
以降、政親は本願寺門徒の強力さを認識し、警戒するに至った。また、おじの泰高は、御幸塚(石川県小松市)に拠って抵抗をしていた。のちに泰高は、一向一揆に与して政親と戦うことになった。
長享元年(1487)、将軍の足利義尚は近江守護の六角高頼を討伐するため、鈎の陣(滋賀県栗東市)に出陣した。政親も軍勢を率いて、鈎の陣に出陣した。政親の留守中、その間隙を突くかのごとく、一向一揆勢が不穏な動きを見せたのである。
この動きを知った政親は、ただちに加賀国に引き返し、約1万の軍勢とともに高尾山(石川県金沢市)に陣を置いた。一向一揆勢は富樫氏の一族の山川三河守を通して、政親に和睦を打診したが、政親はその申し入れを拒否したのである。
翌年5月、一向一揆勢は和睦を拒否されたことを受け、政親に戦いを挑んだ。このとき、泰高は一向一揆勢に加わり、政親を攻撃したのである。翌月、政親は自害して果て、泰高が加賀を支配することになった。しかし、支配の実権は一向一揆勢が握っていたのである。