新独立リーグ、九州に誕生。大分球団コーチに就任した「デュアル・キャリア」を歩む異色のビジネスマン選手
この春、九州を舞台に新たに独立プロ野球リーグが立ち上がる。その名も、「九州リー
グ」。熊本に本拠を置いていた地域密着型の社会人実業団チーム、熊本ゴールデンラーク
スが発展的改組し、火の国サラマンダーズとなり、これに新球団大分 B-リングスが合な流。当面 2 球団でリーグを発足させることになった。大分球団は、監督に巨人などで活躍した廣田浩章を据え、コーチには元 DeNA、オリックスの白崎浩之を選手兼任で招聘した。
そして、もうひとり、兼任コーチとして入団したのが小野真悟だ。
「オノシンゴ」と聞けば、年数を重ねた野球ファンなら 2000 年代、ロッテのローテーションを支えた小野晋吾(現ロッテ二軍コーチ)を思い浮かべるだろう。この「じゃないほう」の小野真悟は、中央球界では無名の選手だ。彼にはいわゆるプロ野球、NPB でのプレー経験はない。大阪の強豪高校から東北の大学に進むも中退し、いったんは野球から離れたが、草野球から這い上がり、独立リーグの舞台に立ったという異色の経歴をもつ。BC リーグ(現ルートイン BC リーグ)の新潟に始まり、関西独立リーグ、四国アイランドリーグ plusと国内の 3 つの独立リーグで 5 シーズンプレー。その後は国外にプレーの場を求め、アメリカの独立リーグ、メキシコのマイナーリーグ、ドイツ、オーストラリアのクラブチームを渡り歩いた。
彼がプレーしてきたリーグ、チームで手にする報酬はわずかなもので、プレー期間も年
間数か月と決して長くはない。それでも彼は「プロ契約」にこだわり、世界中を渡り歩い
てきた。36 歳になるが、「契約が取れなくなったら終わり」と自ら「引退」の選択はしないと笑う。20 代後半でセカンドキャリアに進む者が多い中、彼は自らビジネスを興し、生活の基盤を築きながらプレー先を求めて世界中を渡り歩く、「デュアル・キャリア」とでも言うべき奇想天外な方法で、プレーを続けている。
そんなビジネスマン選手が日本の独立リーグに帰ってきた。新生リーグのキャンプを送
る彼に話を聞いた。
独立リーガーと実業家という「デュアル・キャリア」
日本の独立リーグでプレーするのは実に 10年ぶりになる。しかし、それもあくまでコロナ禍の中、現役を続けるためのひとつの選択肢に過ぎなかったと小野は言う。
「自分の中では、日本の独立リーグに復帰という意識はありません。今までやっていたことの延長線上に大分球団があって、自分の戦略的な目標に対するポイントが合っただけです。昨年は、過去に在籍したメキシコのマイナー球団との契約が決まっていたんですが、コロナの影響でリーグ戦自体がなくなったんです。今年もアプローチをかけてはいたんですけれども、ちょっと状況が厳しいんじゃないかと思って、久々に日本でやるしかないのかという思いになりました。それで 11 月末ぐらいから、国内の独立リーグ球団のいくつかに当たってみたんです。その中で、新規に九州に独立リーグができるということで、つてを頼って大分球団に売り込んだというのが入団の経緯です」
野球選手以外に小野にはもうひとつの顔がある。彼は現在、かつてプレーした愛媛の松山で、2 つの会社をもち、飲食店 5 店舗、パーソナルトレーニングジムを運営、マーケティング営業を行っている。社員 5 人とアルバイトを抱え、順調に事業を継続させている姿は完全にやり手のビジネスマンだ。しかし、小野はそのビジネスもあくまで現役生活継続のためで、金もうけには興味がないと笑う。
「ビジネスの方は、基本、スタッフに全部任せているんで。経営面だけですね。僕が店に立つこともありますが、本当にたまにです。海外でプレーしていたときはリモートで指示を送っていました。そういう意味では、今シーズンは 2 月から 9 月まで九州でプレーしますが、海外でプレーしているときと一緒ですね」
選手生活優先のスタンスは、オフやプレー先を探している間も変わらないという。現在の生活は、7 時に起床、朝食後、日課としている散歩を終えると、自社が運営するジムでトレーニング、その後いったん自宅に帰って、フィールドでの練習というものである。社業の指示は、その間に行う。そして国外の球団との契約がまとまれば、現地へ飛ぶ。
「ようするに、自分が自分のスポンサーになるということです。海外に行って感じたことですが、日本の独立リーグの選手は、基本、待ちの姿勢ですよね。正直、日本の独立リーグの契約も、海外のリーグに比べたら甘いですよ。シーズン途中にそうそうクビにはなりませんから。だから、自分で契約を取りに行くという姿勢が選手にもなくなってしまう。そこをどうにかすれば、野球を辞めた後、社会に出ても、自分で経営をしたりとか、仕事を取っていくということができると思うんです。それも野球を辞めたらとかじゃなくて、野球をやりながら並行してできるようになって、何歳になってもプレーできるようなシステムを構築できたらいいんじゃないかと。野球選手がプレーしながら、次のキャリアを考えられるようになれば、スポンサー獲得とかも、選手自身ができると思うんです。球団の集客にもつながるでしょう。
自分のビジネスについても、僕みたいに海外でプレーする選手はだんだん増えてきていますが、日本に帰ってきて、辞めてしまう選手が大半なんです。だから、新しい道で雇用を生んでいけば、彼らも新しい挑戦がしやすいかと思うんです。今もうちのスタッフのひとりが、アメリカのトライアウトリーグに参加しています」
流浪の野球人生の中たどり着いた「デュアル・キャリア」という方法論
国内最後の球団、愛媛マンダリンパイレーツを退団した後、小野はアメリカへ飛んだ。ペコスリーグという、独立リーグ最下層に位置するリーグのスタジアムとも言えない球場で小遣い銭程度の給料でプレーする選手は、それでも生き生きとしていた。野球の報酬だけでは無論食っていけない。故郷からの移動やトライアウト費用を考えると赤字にすらなる。しかし、好きな野球に打ち込むことのできる彼らの表情は一様に明るかった。ここで小野は、現役を続けることの金でははかれない価値を知った。
メキシコでは早々にクビを味わった。その後、たどり着いた独立リーグのキャンプに集まった選手の数にアメリカ野球の厳しさを思い知らされた。200 人を超える選手から開幕ロースターに残るのは 20 数人。キャンプ前の「契約」などほとんど空手形に過ぎなかった。そこで勝ち残っても、シーズンが始まった後も選手は日々入れ替わる。
アメリカの後は欧州にプレーの場を求めた。ネットの発達したこの時代、球団への売り込みは離れていてもできる。野球大国である「日本」と「プロ経験」は「野球不毛の地」では思った以上に役に立った。
欧州やその後クラブチームでプレーしたオーストラリアでは、新たな価値観を身に着けた。これらの国では野球選手は、たとえトップリーグでプレーしていても「セレブ」ではない。プレーで報酬を手にしている選手でさえ他に職を持ち、自ら事業を行う選手も珍しくない。野球に専念というわけにはいかないが、だからこそ、フィールドにいる間の集中力は高く、またひとりの人間としての視野も広い。
小野は言う。
「日本だとプロ契約を結ぶと、それこそ一日中野球でしょう。ヨーロッパなんかでは、プロ契約の選手でもそれだけではなかなか食べれないんで、兼業しますから。常にプレー以外のことも考えています。だから、僕も海外で野球をしている間もビジネスのことを考えているんです。海外の街並みを歩いたり、食事しに行ったときに、新しいビジネスのアイデアがふっと浮かぶこともあるんです。探すなんかもしていますし。
そういうことを言うと、よく選手と経営者の比率は?なんて聞かれるんですけど、自分の中ではもう一緒なんです。全てが自分の生活の部分なんです。野球をしながら、ビジネスのヒントを得ることもあるし、経営しながら、野球選手としての気付きもいっぱいあるんです。海外にいてわかったことですが、契約を取りに行くという点では、野球選手とビジネスは似ているんです。明日、仕事がなくなるかもしれないという点でね。商売だって、明日、お客さんが来てくれるかどうかなんて、分からないでしょう」
現役生活を続けるために始めたビジネスのノウハウも「走りながら考えた」。
「やりながら分かったという感じです。分かってもいないですけれども(笑)。ちょっとずつですですね。それも選手として海外に出るのと同じです。英語を学んで行っても、向こうでしゃべるかっというと別の話でしょう。実際僕も行ってみたら、勝手にしゃべれるようになりました。メキシコでもそう。スペイン語なんかしゃべれないですけれども、なんとかなったんで」
日本野球「復帰」に際して履くことになった「三足目の草鞋」
今回、大分では、野球選手の顔、ビジネスマンの顔に加え、コーチ業という新たな顔が加わる。これまでのひとり二役でもなかなか大変なのに、キャパシティ的に大丈夫なのだ
ろうか。その問いに関しても、小野はあくまでポジティブだった。
「むしろ僕の中では、自分のキャパシティを広げたいと思って、日本の独立リーグでやろうかと思ったんです。選手のみというお話ならやらなかったと思います。球団とは初めから選手兼コーチという話でした。コーチだけというのでもお話はお受けしなかったです」
NPB 出身者でもない小野に大分球団が白羽の矢を立てたのは、ビジネスマンという小野のもうひとつの顔があってのことだった。実際、小野は入団決定後、これまでの経験からスポンサーの獲得や SNS での発信について助言を請われている。
とは言え、小野にとって、あくまで一番の柱は選手としてのプレーだ。キャンプインに当たって、目標はポジション奪取だと言う。
「現実には、コーチが両方とも選手兼任なんで、ふたりとも両方出ずっぱりというのは、難しいとは思います。コーチがメインにはなるかなというイメージはありますね。練習中も、基本的にノックを打ったりとか、コーチングが中心で、自分の練習は朝とか、全体練習が終わってからになると思います。でも、戦力としてバリバリでやるつもりですよ。フィールドでの勝負なら、負けない自信はあります。体力的には若い選手にはかなわないでしょうけど(笑)」
プロである以上、ポジション確保には競争はつきものだ。その結果、コーチ業の比重が大きくなり試合出場がままならなくなったとしても、それはそれで受け入れる覚悟だと小野は言う。
「その点も考えてのコーチ兼任選手という契約です。ここでのコーチ経験は、ビジネス上の実績にもなりますから。うちの会社のジムでは、野球塾もしているんです。日本の独立リーグでプレーし、海外のいろんなリーグへも行って、今回九州の独立リーグで、コーチ兼任でプレーしたとなると、またちょっと違う価値が自分に出てくるんで」
「プレイング・オーナー」という壮大な夢
そんな小野の将来的な夢は、球団経営だ。
「前々から、ボールパークをつくりたいと思っているんです。それに付随して、球団経営とかをしていきたいですね。もちろんゆくゆくはですけど。ボトムで独立リーグ球団、トップはでっかく NPB 球団というところでしょうか(笑)。現実的には、海外のリーグに興味があります。ドイツで 2 シーズンプレーしましたし、短期ですけど、台湾のクラブチームとの遠征試合にも加わりました。そういうチームオーナーになりたいですね。そういう場所に実際身を置いてみて、こんなことをしたら、もっと面白くなるのにとか、よく思っていましたから。球団がいろんなことをやっていたんですけど、球場をこういうふうにしたりとか、こういうものを売ればいいのにとか。それに、選手のプレーの仕方や雇用の仕方もそう。そういうことに自分で関わって、新しい価値観を出していきたいですね。今回、大分球団と契約したのもチームの立ち上げを経験できるというのも大きいです」
その球団経営も椅子に座ってするつもりはない。
「球団経営しながらプレーするのが、一番の目標なんです」
となれば、監督業もと思うのだが、それには興味はないらしい。
「監督はもちろん、誰か雇います」
しかし、監督としてもオーナーが「部下」としてベンチにいればなにかとやりにくいだろう。その疑問をぶつけると小野は笑いながら返してきた。
「もちろん監督の指示には従いますけど…。確かにそうですね。でも逆に、違う球団でプ
レーするかもしれませんね」
それはそれで、自軍のオーナーがプレーするチームと対戦せねばならない監督はやりに
くい。
では、と小野は別の答えを用意した。
「それなら、日本で球団を持って、僕が海外に行っているかもしれない(笑)」
壮大な夢を描きながら、小野はひと回り以上年下の選手に混じって、新たなシーズンの
スタートを切っている。