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【戦国こぼれ話】戦国一の猛将・本多忠勝は、出陣して一度も怪我をしなかったというのはホント?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
「本多家立ち葵」は、本多忠勝が用いた家紋である。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 三重県桑名市は本多忠勝の入封420年を記念して、10月23日から市博物館で特別展を開催する。ところで、忠勝は出陣して、一度も怪我をしなかったというが、それは事実なのだろうか。

■猛将・本多忠勝

 本多忠勝は、忠高の長男として天文17年(1548)に三河で誕生した。徳川家康の配下の武将で、「徳川四天王」(ほかは、酒井忠次、榊原康政、井伊直政)の一人である。

 忠勝は永禄3年(1560)の鳥屋根城(愛知県豊川市)の攻防において、叔父・忠真から戦功にせよと首を譲られたが、これを断って自ら敵の首を取ったという逸話がある。

 忠勝が用いた槍は、「天下三名槍」の一つ「蜻蛉切」(藤原正真作)だった。蜻蛉が槍の穂先に止まったとき、そのまま真っ二つに切れたといわれ、約6メートルの長身の槍である。

 こんなに大きな槍を自由自在に振るっていたのだから、忠勝が大いに軍功を挙げるわけである。

 何より忠勝が有名なのは、生涯を通じて57回の合戦に出陣したが、かすり傷一つすら負わなかったという逸話である(『藩翰譜』など)。これは、諸書で紹介されている。

 むろん、これはたしかめようのない話であり、史実か否か疑わしい。大怪我はしなかったかもしれないが、戦いのなかで怪我をしなかったというのはあり得ないだろう。

■関ヶ原合戦後は西の押さえに

 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で東軍が勝利すると、忠勝も大いに軍功を評価された。

 徳川家の譜代の家臣は、加増によって多くが国持大名に取り立てられた。しかし、豊臣系大名が西国方面に配置されたのとは異なり、彼らは関東から畿内周辺部にかけて新たな領地を与えられている。

 井伊直政は近江・佐和山(滋賀県彦根市)、本多忠勝は伊勢・桑名(三重県桑名市)、奥平信昌は美濃・加納(岐阜市)という具合である。

 こうした配置は、大坂の豊臣秀頼を牽制するとともに、西国に新たに入封した西国大名への対抗措置であったと考えられている。譜代の家臣が国持大名に取り立てられたのにも、大きな意味があった。

■名馬「三国黒」

 忠勝はのちに二代将軍になった徳川秀忠から、三国黒という名馬を与えられたといわれている。

 三国黒の体長は「9尺(270センチメートル)」あったというが、これではあまりに大き過ぎるので誇張したものだろう。

 関ヶ原合戦で東軍に属した忠勝は、三国黒に乗って戦場に乗り込んだ。忠勝は三国黒を操り、戦場で指揮を執っていたが、やがて西軍の島津義弘、宇喜多秀家の陣に突撃した。

 ところが、戦いの最中に悲劇が起こった。忠勝の愛馬・三国黒は戦闘中に銃撃を受け(一説によると矢を受けたとも)、非業の最期を遂げてしまったのである。忠勝は悲嘆に暮れる間もなく、自らの足で戦場を駆け回った。

 一連の様子を見ていた与力の一人である梶勝忠は、自分の馬を忠勝に提供し、その窮地を救ったと伝わっている。のちに勝忠は、桑名藩の家老となり藩政を支えた。

 忠勝の猛将としての逸話は事欠かない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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