森友・加計問題が私たちにつきつけていること
1.驕りとおもねり
森友問題で、佐川元財務省理財局長の国会証人喚問が行われた。日本の官僚の劣化が言われて久しいが、少なくとも法令に則って行政を行うことについては、日本の官僚は世界で最も真面目な部類に入ると思う。むしろ、杓子定規過ぎるという批判の方が多い。この問題で不思議なのは、森友と財務省職員の誰にも贈収賄の疑いがかかっていないことだ。自分の利益にもならないことについて、杓子定規な官僚が公式な文書の改竄までするというのはなぜなのか。何らかの外的な圧力があったと多くの人が考えるのも自然だろう。
ここでは、森友あるいは加計という個々の問題ではなく、これらの問題が起こった背景について考えたい。
忖度という言葉がすっかり悪役になっているが、本来「忖度」は悪事を表わす言葉ではない。「空気を読む」と同様、空気ばかり読む人間には辟易するが、全く読めなければ「アイツは空気が読めない」となる。相手の心中を推し量ること自体は悪いことではない。
森友・加計問題に見られるのは、権力を持つ者の驕りと権力を持つ者に対する周囲の媚び、おもねりだ。権力序列の上から下に対する有形、無形の要求、圧力と、下から上を向いたおもねりの積み重ねが今回の問題をもたらしたのだと思う。
今回の事件に官邸の関与があったのかどうかは知る由もないが、そこから地方部局である財務省の現場までの間には意思の伝達、決定プロセス上かなりの階層がある。その間に歯止めはかからなかったのだろうか。それだけ圧力とおもねりが強かったということかもしれないが、私はそこに現場感のなさを感じる。
2.官僚の裁量と現場感
許認可など国家権力の行使を伴う事柄には、古今東西を問わず「そこをなんとか」がつきものだ。ボーダー上にあって若干のさじ加減を求めるものから、どう考えても無理筋で認められないものまで様々だ。
法令の執行は厳正、公正に行われないといけないことは言うまでもない。しかし、法令にすべてのことが書かれている訳ではない。個々の案件に法令をどう適用するか必ず解釈、判断が入る。そこに裁量の余地が生じる。しかし裁量が必ずしも悪いわけでもない。
象徴的なのがいわゆる大岡裁きだろう。「三方一両損」など裁量どころか法令無視みたいなものだが、現代でも通じる美談になっている。掟の上では死罪でも、事情を勘案して無罪放免なんて話もある。そこに現代の私たちも感動する。それは大岡越前守が自ら権力を持ち、また権力に仕える身でありながら「下々の者」の視点で裁量を行ったからだ。森友・加計問題にしても、彼らが本当に教育や地域のために心血を注いでいたのなら、「いいじゃないか」という声も出ていたかもしれない。
法令の執行に裁量がつきものだとすれば、裁量をする政治家や官僚に、大岡越前守とは言わないものの国民目線の判断力がないといけない。決して良いことではないが、昔のほうがもっとドロドロした「政治案件」や露骨な政治家の関与が多くあった。政治家も官僚もそれらを否応なくこなしていく中でグレーの中でもこの辺までは許されるのではないかといったある種の相場感や判断力を身につけ、それが自己抑制や歯止め、危機管理につながっていたのではないか。
このような問題が起こると、往々にして現場にいた人が自ら命を断つということが起きる。本当に悲しく、悔しく、無念だ。上に立つ者が外からの圧力に屈すれば担当者や組織はどうなるか、現場で事の処理にあたる人がどれほど苦しむか、その心の内をそれこそ忖度できないのか。これもやはり組織の上に立つ者の現場感のなさだと思う。
この問題に関わった財務省の幹部たちももちろん悩んだに違いない。国民に対する説明や財務省全体が受けるダメージなどについて散々迷い、抵抗もしたかもしれない。しかし、そのギリギリの選択が今回の一連のことだったとすれば、彼らが身に付けていた判断力は間違っていたということになる。かつて、はるかに強烈な政治家たちと体を張った切り結びをしていた大先輩から見ると、そう見えるだろう。
この背景には、橋本内閣から小泉内閣にかけての行政改革によって、行政の企画立案と執行の分離が進められたことや、現在も続いている公務員の定数削減の結果、霞が関の官僚が行政執行の現場から遠くなったということがあるのではないだろうか。もちろん、2014年に設置された内閣人事局に象徴される、政治家の幹部官僚人事に対するグリップの強化によって、官僚の目が「下、内」より「上、外」に大きく向くようになったのも、巷間指摘されている通りだろう。
3.政治家の変化
この問題に関わる政治家サイドの制度変化をみると、1995年に政党助成法が施行され、税金で政党を資金的に支援するようになった。ロッキード事件をはじめ数多くの贈収賄事件があり、常に闇の部分とされてきた政治とカネの問題を公明健全にしようという趣旨だ。そして1996年には二大政党の実現と派閥政治からの脱却を目指した小選挙区制での初めての選挙が行われた。これらの制度改革の結果、派閥ごとの徒弟制度のような議員教育や、危ない相手や誘惑が多い中からどうやって票や資金を集めるかといった、ある種の現場の泥仕事が格段に減ったのは事実だろう。そういうことを減らすのが目的だったわけだから、まさに制度改革が成果を挙げたと言える。
しかし、現実には世の中から悪事、欺き、誘惑などがなくなるわけではない。とりわけ政治家のように権力を持つ立場にいる人間には、そういったことが日々近づいてくる。それに対する身の処し方、線引きの仕方、抵抗力を身に付ける機会も減ったのだ。しかも、小選挙区制になって「風」に乗って大量かつ急ごしらえの新人議員が生まれる。民主党政権時代も同じだったが、現在の1~2回生議員たちが次々と起こすあまりにも低次元のスキャンダルも、ネットはおろか国会質問においても出してくる品のない発言も同じだと思う。一概には言えないが、現場での「汗かき経験」が少ないという点では、二世、三世議員も同様だろう。
権力の行使と維持は、政治家の関心、行動において核心をなすことだ。だからどうしても汚れやすい。これをきれいにしようという努力は常に続けないといけない。しかし、それでもきれい事で終わらないことが常に起こる。それにどう対応するか。しくみ、制度ばかりを厳しくして「きれいな政治の形」を作っても問題はなくならない。制度を作るのも政治家、官僚だから、網のかいくぐり方も心得ている。むしろ今回の問題がそうであるように、真相の究明が難しくなることが多い。
4.制度よりも人
私は「人を作る」方を考えるべきだと思う。組織論の泰斗、野中郁次郎一橋大学名誉教授はアメリカ海兵隊の研究で知られる。野中氏が最強の組織という海兵隊は、兵士から指揮官までがともに激烈な戦闘訓練を通して現場でのギリギリの判断力を養い、それを共有することで意思の疎通、信頼が保たれ、それが理念にまで高められていると言う。戦争は何としてでも避けるべきことだし、戦争遂行組織を美化するつもりはないが、危機に直面した時の個人、組織のあり方とその作り方としては大いに参考になると思う。
かつては、いわゆるキャリア官僚も入省後10年ほどの間に地方部局=現場で勤務する機会が今より多かったと思う。そこには日々どんな業務や問題があり、担当者はそれに対してどう対応し、あるいは悩んでいるか。財務省に限らず、福祉でも教育でも災害でも、すべての分野でこういった経験は必ず生きるし、現場職員との信頼関係を作る基盤にもなる。実現は難しいが、本当は、新人議員にも各官庁の現場あるいは自治体で1年間くらいインターンをしてもらうといいと思う。あるいは、行政現場でのインターンを立候補や政党の候補者公募の条件にしてもいいかもしれない。
これらはいずれも例えばといったレベルの話だが、要は法令を厳しくして形を整え、その解釈に集中し、あるいは争うのではなく、現実にどうすることが世の中のためになるのか、あるいは体を張ってでも止めるべきことなのかを体で理解し、いざという時に体が適切に反応するような「人作り」のしくみを考えないといけないということだ。
その意味で政党助成も小選挙区制も実施10年を過ぎて、これらの制度の足りないところを見直す時期に来ている。内閣人事局による各省の幹部の一元管理についても同じだ。政治家と官僚の間の緊張感のある協力・分担関係をどう築くか、唯一の答えがない課題ではあるが、この機会に私自身考えたいと思う。
5.日本全体が同じ病
以上のことは実は、政治家や官僚に限ったことではない。東芝の粉飾決算など企業犯罪の多くも同類だろう。会社のトップが金融市場や社会における会社の業績、つまりは自らの業績や体面を繕うために数字の改竄を行う。数字を書き換えても何が良くなるわけでもないのに、立派な歴史もある大企業の経営者がこんなことをする。それを会社として止められない。これも多くの大企業で経営陣と現場の距離が遠くなっていることが大きい背景としてあると思う。不祥事が起こるたびにコーポレート・ガバナンスやコンプライアンスの強化が叫ばれるが、ルールが厳しくなっても問題はなくなっていない。
こうして考えると、昨年の流行語にもなった「忖度」問題は、連日この問題をスキャンダルとして煽ってきたメディアを含め、日本全体に対する警鐘と受け止めるべきだと思う。私たち全員が「現場感」を取り戻さないといけないのだ。