【戦国こぼれ話】「丹波の赤鬼」と恐れられた荻野直正のルーツとは
兵庫県の氷上高校の野球部員が、丹波の荻野直正とゆかりの深い黒井城でランニングをしたというニュースが流れていた。こちら。荻野直正とは何者なのか、その点を深掘りしてみよう。
■赤井氏のルーツ
赤井直正といえば、『甲陽軍鑑』に「名高キ武士」として徳川家康、長宗我部元親、松永久秀らと並んで名が挙がっている。『甲陽軍鑑』は近世に成った書であるが、直正を名立たる武将の一人として認識していたことは特筆に値する。
しかし、直正は世間的にあまり知られていない人物である。以下、その出自や動向について、詳しく取り上げることにしよう。
そもそも赤井氏は、信濃を本拠とする清和源氏頼季流井上氏の流れを汲んでいた。保元3年(1158)、井上家光は丹波国芦田荘(兵庫県丹波市)に配流となった。その後、井上氏は芦田という地名にちなんで、姓を芦田氏に改めたという(異説もある)。
文治元年(1185)、源頼朝が平家一門を滅ぼし、やがて鎌倉幕府を開いた。同じ頃、井上道家(家光の子)は丹波氷上郡をはじめ天田・何鹿・船井郡へ勢力を徐々に拡大し、丹波半国の押領使(諸国の凶徒鎮圧のために置かれた職)に任じられた。この井上氏こそが、赤井氏の源流なのである。
その後、芦田氏は丹波に勢力基盤を築き、道家、忠家、政家の三代にわたって丹波半国の押領使を務めた。転機となったのは、為家(政家の孫)のときである。建保3年(1215)、為家は父の朝家から赤井野(兵庫県丹波市)の地を与えられた。
為家は赤井野の地にちなんで、姓を赤井氏に改称した。同時に近くに後屋城を築き、本拠としたのである。なお、為家の弟・重家は朝日村(丹波市)に移住し、荻野に姓を改めた。
■荻野直正の登場
直正が時家の次男として誕生したのは、享禄2年(1529)のことである。時家の嫡男は家清で、合戦のたびに大いに軍功を挙げたという。嫡男が家督を継ぐのが習わしだったので、直正は同族で丹波黒井城(丹波市)主の荻野氏の養子となった。
以降、直正は荻野を姓とする。直正の妻は、同じ丹波の国衆・波多野元秀の娘だったという。ところが、元秀の娘とは死別し、近衛前久の妹を後妻として迎えたというが、近衛家とは家の格が違いすぎるので、大いに疑問が残る。
その後、外叔父の荻野秋清が反逆を企てたので、直正はこれを討って黒井城を奪取した。以後、直正は「悪右衛門」と称され、「丹波の赤鬼」と恐れられるようになったのである。
「悪」には文字通り「悪い」という意味もあるが、性質、能力、行動などがあまりに優れているのを恐れていう意味もある。こうして直正は、荻野氏の盟主となったのだ。
弘治3年(1557)2月、兄の家清は甲良合戦(三好氏家臣・松永長頼との戦い)で受けた傷が原因で亡くなった。家清の後継者は、幼い子の忠家だった。
そこで、直正は忠家の後見役を務め、丹波奥三郡(氷上郡、天田郡、何鹿郡)の支配を行ったのである。実質的に直正が赤井氏を動かしていたのだ。やがて直正は、敵対する丹波の荒木氏、塩見氏、内藤氏ら諸勢力を討伐し、丹波に確固たる勢力基盤を築き上げたのである。
■むすび
直正の丹波支配に関わる史料は、いくつか残っている。永禄7年(1564)7月21日、直正は父の時家と連署して、丹波の土豪・味間氏の所領を安堵した。
当時、直正は30代半ばの壮年に達していたが、父と共同で統治に臨んでいた様子がうかがえる。年未詳ながら父子で連署して、丹波の土豪・安村氏に対して、戦死した父の跡職を与えたことも確認できる。こうして直政は丹波に権力基盤を築いていったのである。