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窮地に陥った藤原伊周。その後、復権する可能性はあったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、当初、藤原伊周が若くして大出世をしていたが、長徳の変で没落し、おじの藤原道長の後塵を拝することになった。その後、復権する可能性があったのか考えることにしよう。

 藤原伊周は、道隆の次男として誕生した。道隆は父の兼家のあとを継ぐと、関白、摂政を歴任し、中関白家の栄光を築き上げた。伊周は道隆の恩恵を受け、21歳という若さで内大臣に昇進した。おじの道長よりも、地位が上だったのである。

 しかし、道隆が亡くなり、その弟の道兼があとを継いだがすぐ亡くなると、後継の座をめぐって、伊周と道長が有力な候補になった。結果は道長が内覧に任じられ、伊周は無念の涙を飲むことになった。以降、2人は対立的な様相を呈したのである。

 長徳2年(996)、伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇の衣の袖を矢で射貫く事件が起こった。さらに伊周には、東三条院詮子を呪詛したという嫌疑が掛けられた。一連の事件により、伊周・隆家兄弟は厳しく追及され、左遷となったのである。

 翌年、伊周は赦されて帰京したが、復権は厳しい状況にあった。唯一の頼みは、妹の定子(一条天皇の中宮)が産んだ敦康親王だった。将来、敦康親王が天皇になれば、伊周にも復活の可能性があるからだ。しかし、そこには道長が立ちはだかった。

 道長は娘の彰子を一条天皇の中宮とし、着々と地歩を固めようとしたのである。寛弘4年(1007)、道長が彰子の出産を祈念すべく御嶽詣でに出掛けると、伊周・隆家兄弟は暗殺を計画したという。しかし、この話は単なる噂話に過ぎなかったようである。

 翌寛弘5年(1008)、伊周は大臣に准じる地位を与えられたので、道長との関係は決して悪くなかったのだろう。ところが同年、彰子は敦成親王(のちの後一条天皇)を産んだ。この一報を耳にした伊周は、大きなショックを受けたと考えられる。

 その2年後、伊周は失意のうちに生涯を終えた。享年37。結局、敦康親王は天皇になることができず、敦成親王(のちの後一条天皇)が天皇になった。道長の思惑通りにことは進んだのである。

 伊周は道長に首根っこを押さえられていたので、復権する可能性は極めて低かったのだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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