【実名報道を考える】メディアスクラムをどうするか?記者の仕事はどうあるべきか
「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。
第1回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜどのように匿名志向が生まれたのか
第2回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜ実名報道が基本になっていくのか
第3回目:【実名報道を考える】「出る杭は打たれる」空気 メディアは当局との距離をどう取るか
第4回目:【実名報道を考える】「行儀の良さ」よりも「戦闘的ジャーナリズム」を 英米報道の現場とは
第5回目:【実名報道を考える】私たち一人一人が「パブリック」を構成している 「お客さん」ではない
最終回は、メディアスクラムについてどうするべきかと、澤氏がこのテーマで「気になっていること」をうかがった。
なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。
―メディアスクラムについて。実名報道を嫌う人たちの大きな理由の1つとして、実名が出ることによって、被害者やその遺族にメディアが過剰取材をするから、ということがありました。筆者からすると、それも「オープンで自由な社会」がもたらす、痛みの1つと見えるのですが、これを一体どうすればいいのでしょう。メディアに対する不信感が高まりすぎることを、私はとても心配しています。何も信じられなくなる社会になることが心配です。
メディアスクラムについて、過剰で無思慮な取材の仕方がなされることは大問題で、改善の努力を続けていかなければならないと思います。
ただかりに匿名報道の記事であっても、報道記事である以上、取材をしないで書くわけではありません。取材は尽くすが、匿名で報じるというだけで、取材の必要さは実名報道だろうが匿名だろうが同じです。できるだけ、当事者に当たって取材しなければなりません。
警察が事実と違うことを言っている可能性もあるし、勘違いしている可能性もある。警察がうっかり見落とした大切な事実を、被害者など関係者は知っているかも知れない。実名報道しない場合でも、これらの取材は必要になります。そのためにはどうしても記者が何らかの形でコミュニケーションをすることになります。ここを省くと「当局の言うことの鵜呑み報道」になってしまいます。
実際には「鵜呑み」の報道は確かにあって、あまり大きい記事にならないようなもの、あるいは関係者の取材が困難なものの場合は当局の情報に基づいて「警察によると」というベースで報じることは珍しくありません。これはこれで大きな問題なのですが、これを改善するとなると、結局やはり直接取材を励行するということになります。
しっかりした取材や調査が基本
取材していない一方的情報だらけにならないようにするには、報道の際に匿名化するにしても、しっかり取材し調査をするしかないのです。そのやり方があまりにも乱暴だったり、当事者が嫌な思いをすることを続けたりするメディアスクラムをどう防ぐか、ということは本当に重要なことで、報道に携わる者挙げて取り組む必要があります。
ただこれも難しい面はあり、取材拒否なのだからだれも近寄ってはならない、という規制をしていいのかどうか。もしこれが徹底されていたら、1999年に大学生猪野詩織さんが殺害された埼玉県桶川ストーカー殺人事件で「警察がストーカー捜査を怠ったがために被害者が殺されてしまった」という最も重大な事実は明らかにならなかった可能性が高いと思います。
この不祥事を突き止めたのは写真週刊誌フォーカスの清水潔記者で、ご遺族は事件直後、あまりのメディアの報道のひどさに取材を拒否していましたが、清水記者が友人に真摯に取材し、ご遺族にも取材を申し込んで、信頼関係を少しずつ築いて調査を進めたことが「桶川ストーカー殺人事件~遺言」という本に記されています。
取材拒否は無視して良いという意味では決してありません。むしろこの事件の報道側の反省点とし、これからもずっと覚えておくべきだと思います。しかし同時に「一切接触は禁止」など一律で考える余地がない基準をつくれば、意義重大な取材までも同時に取り除かれてしまうのではないかと思います。
ところで、警察が実名情報を一切出さなければ取材を抑え込むことがある程度は可能になります。でも、警察が容疑者や被害者の実名を公式発表しなくても取材の中で分かることは珍しくありません。さらにはニセ情報も出回ります。捜査当局が実名情報を明らかにしないということは、ニセ情報をニセだと否定することも困難になるということです。ニセ情報をニセだと言い始めると、警察がニセだと言わない情報については本当だと発表したのと実質的に同じになってしまうからです。
そしてなにより、刑事手続きはどの国でも公開性が高度に求められます。透明性が欠け人々の目が届かなくなると危険この上ないのです。その基本事項を発表しなくなることは「警察にお任せし、市民はいちいち詮索しない」という態勢にすることです。
詮索というとちょっと意地悪なニュアンスがありますが、英語で「パブリック・スクルーティニー」いう表現がありますよね。情報公開、情報開示を示す場合もあります。スクルーティニーは英和辞書では「調査」や「吟味」という訳語が当てられますが、この言葉には同時に、詮索したりじろじろのぞき込んだりというニュアンスが結構強くあります。市民みんなでのぞき込み、ああでもないこうでもないと詮索、検証する。監視をするのはまさに「民」つまりパブリックであって、「詮索」的な視線でじろじろのぞき込むという感覚です。
それにしても、おっしゃるように情報やコミュニケーションがオープンで自由な社会では「嫌な思いをさせるリスクゼロ」は実現できません。犯罪被害者や遺族に無理矢理取材するなどあってはならないと思いますが、ただ、「取材を受ける気持ちがあるかどうかを礼儀正しく尋ね、丁寧にお願いをする」こと自体はどうしても回避しがたく必要なことだと考えています。話したい人もいますし、記者の真意や趣旨、人柄を見極めるうちに話したくなる人もいます。しかし、それも嫌だという人は当然いるでしょう。
これは、少なくとも取材に応じる気持ちがおありかどうかを尋ねることを前提にする限り、必ず発生する問題です。コミュニケーションにゼロリスクはありません。
どういう人であれ記者は一切近寄ってはならない、という厳格な抑制をしてコミュニケーション自体をなくしてしまえば、記者と出会うことで嫌な思いをする人はゼロになります。そうすればメディアによって傷ついた人の声を聞くこともなく、世の中は平穏になるでしょう。それも一つの判断です。被害者遺族とメディアの間に立つ、例えば被害者支援弁護士や警察の人の中には、取材トラブルが起きて「完全シャットアウトをしなかったからだ」と非難されるリスクを意識する人もいるかも知れません。
私自身は、オープンな社会で、多くの人が話したり意見を求めたりしてさまざまな声が出てくることを促すことが民主主義に欠かせないと思っています。事件報道が警察や加害者側のバージョンの話だけで成り立つことになってしまうのも良くないと思います。しかし、それ以上に平穏や秩序を重んじ、そのために取材や報道を抑制するという大変保守的な考え方が強まっていることは感じています。
報道の意味を理解してもらう試み
最初から言いたい気持ちがはっきりとあって、行動する勇気もある人の話だけを伝えるべきだとなると、あまり大きな声をお持ちでない方、話そうかどうしようか、怖いからやめておこうかとお思いの方、子どもの頃から人前で話すのは苦手だという方、そんな方の声は届きにくくなります。そうならないよう、むしろあまり声の大きくない方にこそ報道の意味を理解してくださるよう求め、お話しして下さるよう促すのも記者の仕事の重要な部分です。
そんな方のそばにいてくれる被害者代理人の弁護士が仲立ちになるというのも一つの方法ですが、被害者代理人の本来の責務は被害者や遺族の利益が守られること。その見地から、メディアで発言するというのはハイリスクすぎると判断される方も当然いらっしゃると思います。実際、それによって周囲のハラスメントやネットの侮辱的書き込みが誘発されるリスクは否定できません。だから、発言はやめるべきだという助言をすることは、その限りでは被害者や遺族のためになる判断なのかもしれません。
記者は人々に「話して下さいませんか、それによって世の中は良くなると思います」とお願いするのが仕事なのですが、それによって当事者の方にとってなにか良いことがあるとは言えません。
証言が集まったり、支援が集まったりすることはあり得ますが、報道はそれだけを目的にするものではありません。私たちに言えることは、世の中の人は話を聞いて議論を始め、こんなことが起きないように仕組みを作ろうと思うだろうし、それで世の中が少しずつ変わるのです--ということだけだと思います。今大変な目に遭っている被害者や遺族の方にただちに良いことがあるわけでも何でもないかもしれません。でもどうか「メンバー・オブ・ザ・パブリック」として話していただけませんか、というのが記者の仕事です。
「当事者の利益」を代理する立場と、社会に情報を共有する立場と、ここがなかなかかみ合わないこと、おわかり頂けますでしょうか。
ただ、立場が違うことは良く踏まえた上で、それでもエリートが一般市民に「社会に意見を言うなんてやめておいたほうが良いのでは」ということがどういうインパクトを持つか、もう少々考えてみたいと思うのです。
―最後に、このトピックについて、当方がカバーしていない論点、感想がありましたら、おっしゃってください。
実名報道に伴う痛みは非常に深刻でありかつ明確に指摘することが可能なものが多くあります。逆に、実名情報のメリットは多くの場合、直ちに実感できるものではなく、実名情報を取り除いた場合に直ちに文脈が崩壊したり、意味を全くなさなくなったりというものでもありません。「なくてもなんとかなる」と受け止められるものです。
基礎的な公共情報の共有と言ったところでいかにも観念的ですし、歴史の記録だと言っても「そんなものが何の役に立つのか」と思われるのがふつうかも知れません。実際には「匿名でも伝えられる」のではなく「匿名でも伝えられることもある」にすぎないのですが、「何が得られなかったかを知る」のは難しいものです。
マスコミはネット以前、長年にわたって情報流通の要の座にあって、ジャーナリズムは重要で意義のある役割を果たしてきたと思っています。メディア批判、不満は紙メディアしかない時代であってもオルタナティブな雑誌やミニコミで活発に展開されていましたが、量的にも限られていたし、何よりある程度の議論のルールに則っていました。
今のように直接、乱暴な言葉遣いのものも含めてSNS経由でどんどんぶつかってくるというのは報道関係者にとって史上初めての経験といって良いと思います。そこから学べることもとても多いのですが、一方で「いくら何でもそりゃあないだろう」というものもたくさんあります。
報道機関で一定以上の世代の方とお話ししていると、これに戸惑って「あまり批判が来ない時代」の再来を求め、そうなるために「怒られることをしない」シフトを考えているフシがあるように感じています。実名報道でいえば、匿名の幅を増やしたり「私たちも配慮している」とアピールしたりです。
私としては、「歴史を克明に記録する」というジャーナリズムの原理原則に反してまでそんなことをしても、かえって原理原則に対する態度のユルさを印象づけるだけで、「結局信念などないのではないか」「不真面目だ」と、むしろ非難の根拠を与えてもおかしくないように思います。
日本では、メディアによる権力監視が不十分だとみる人が他国より多く、8割が「その役割を果たしていない」と考えていることは既に述べました。実際には森友・加計問題や「桜を見る会」、関西電力金品受領問題などの成果もあって、誤解に基づくところも多いとは思います。
ただ、実名匿名でいうと、事件事故や災害の被害者報道では原理原則を堅く守る一方で、それ以外の報道で「なぜこれが匿名なのか」と思うようなものが多くなっていることが「マスコミは強い者に弱いのでは?」という疑念の源泉にもなっているように思います。
「何となく匿名」みたいな空気が報道現場にあふれていないか、気になっています。
信頼を得るには、優等生めいた振る舞いになることではなく、あくまでアグレッシブに書いていくことのほうが大切ではないかと感じています。それにより非常に蔑まれることもあるかもしれません。でも、マスコミがチヤホヤされようとしてはいけない、そんなことを求めることは職業人としておかしいと再確認する必要があるように思うのです。
いわば「行儀の良さ」を追求し、トラブルを消去しようとする「縮小均衡」的な対応ではなく、よい報道成果と闘う姿勢で存在価値を感じていただくしかないのではないかと思っています。(終)
澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。現在は、調査報道・深掘りニュースを担当している。
***
筆者記事: