【#実名報道】日本メディアの落とし所は? 欧州では「匿名」のあり方に逆風も
筆者が住むイギリスでは実名報道が常態化しているが、ドイツやスウェーデンのメディアは限定化された実名報道、あるいは匿名報道を選択している。3カ国の編集規定や報道ぶりを紹介してみたい。日本での、実名・匿名報道をめぐるメディア側と国民の間の主張の「溝」を埋めるための一助になれば、幸いである。
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著名人も、報道の被害者に
前回の記事では、イギリスでの実名報道による被害の実例を記してみた。
メディアによる過熱報道の犠牲になるのは、一般人だけではない。
昨年9月、ラグビー・ウェールズ代表の元キャプテン、ギャレス・トーマスさんが苦渋の選択に迫られたことを告白した。
トーマスさんは2009年に同性愛者であることをカミングアウトしていたが、エイズの病原体HIVに感染していることは誰にも話していなかった。しかし、ある朝、大衆紙サンの記者がトーマスさんの両親宅を訪問。息子のHIV感染についてどう思うかを聞いた。
トーマスさんは両親にショックを与えてはいけないと思い、時機を見て、二人に話すつもりでいた。しかし、「その機会は、サン紙によって永遠に奪われた」。
トーマスさんは自ら、HIV感染を公表することにした。自分のツイッターアカウントで、「悪人」たちから脅迫され、公表を強いられた、と書いた。
そして、10月、BBCのテレビ番組でHIV感染者としての人生をドキュメンタリーの中で語った。
今月8日には、エリザベス女王の孫にあたるヘンリー王子とその妻メーガン妃が、夫妻のインスタグラムのアカウントを通じて、公務を大幅減少させることを宣言。事実上の「引退」宣言と理解され、世界中で大きく報道された。
昨年秋、メーガン妃はイギリスの大衆紙による熾烈な報道による損害の大きさを民放のテレビ番組の中で吐露した。夫妻は、「人々やその生活を破壊する」大衆紙に損害賠償を求めて提訴。メーガン妃が離婚歴のある、アフリカ系アメリカ人であったことから、人種差別的文脈での報道に夫妻は苦しめられてきた。
一般市民も著名人も、そして王族までもが報道被害にあってきた。
イギリス放送業の編集規定は
今のところ、実名報道という原則自体をなくそうという動きはないものの、メディアの過剰報道への危機感は強い。
編集規定はどのようになっているのだろうか。
英国で放送・通信業の規制・監督を担当するのは、「オフコム」(放送通信庁)である。オフコムが定める「放送規定」は、オフコムが放送免許を与えるすべての放送局(主要放送局となるBBC、ITV、チャンネル4、チャンネル5、有料放送のスカイテレビなど)が順守する義務がある。
第8条が「プライバシー」についての言及で、「番組中でのプライバシーの侵害には…正当な理由があるべき」と規定する(8-1条)。プライバシーを侵害する「公益がある」と判断した場合、放送局側が個人情報などを報道できる。「個人やその家族の居住地を明らかにする情報は、正当な理由がない限り、許可を得ずに公開してはならない」(第8-2条)。
取材については、どうか。
レポーターなどが取材をしたい人の家や仕事場などの前で待ち構え、建物中に入っていくまでを撮影し続けることがあるが、これは「ドアーステッピング(ぶら下がり取材)」と呼ばれている。これについては、「取材願いが拒否された、あるいは取材が実現できなかった場合、通常のやり方では調査が進まないといったことがない限り、また正当な理由がない場合、行ってはならない」(8-15条)。
新聞界の編集規定とは
新聞・雑誌界の場合は、自主規制組織「独立新聞基準組織(IPSO)」の会員(新聞社、出版社)の代表者による「編集者規定」が定められている。「個人の権利と一般市民の知る権利との間で、どうバランスを取るか」が勘所となる。
第2条は「プライバシー」で、「編集長は個人の私的な生活を本人の同意がなく侵害する場合、これを正当化する必要がある」(2-ii条)。「プライバシーが維持されていると想定されている場所で、個人の同意なしに写真撮影をすることは許されない」(2-iii条)。
第3条は「ハラスメント」だ。「ジャーナリストは、脅し、ハラスメント、あるいは執拗な追跡をしてはならない」(3-i条)。「ジャーナリストは、個人がその行為をやめるようにといったん発言した場合、質問をしたり、電話したり、追跡したり、写真撮影をしてはならない」(3-ii条)。
第4条は「悲しみあるいはショック状態への侵入」。「その人物が悲しみあるいはショック状態にあるとき、問い合わせやアプローチは思いやりと慎重さをもってあたる」。
このほか、18歳未満の人物の個人情報の報道に留意すること、性犯罪の犠牲者については個人情報が判明するような報道をしてはいけない(ただし、「正当な理由があり、合法であれば」別である)などの規定がある。
オフコムあるいはIPSOの編集規定での「正当な理由」、あるいは「公益性」はいくらでも拡大解釈ができるように、筆者には見えた。
報道が不当だと思った人は、該当する報道機関に連絡するか、IPSOや「ハックト・オフ」などに連絡し、調停をしてもらうことができる。ただ、IPSOによると、2018年1月から昨年12月末までの間に寄せられた苦情は1万3490件。この中で、編集規定違反とされたのは111件のみである。
お金に余裕のある人は、メディアを訴える。
そんな一人が往年の歌手クリフ・リチャードさんだ。自宅への家宅捜査を報じたBBCの報道がプライバシーを侵害したとして、損害賠償を求めて提訴。2018年、英高等法院はその訴えを認めて、BBCに21万ポンド(約3000万円)の支払いを求めた。
しかし、報道被害の犠牲者のほとんどは、リチャードさんのようにはいかないのが現実である。
ドイツは人種についての報道規定を緩和
ドイツは、被害者や容疑者の個人情報の報道について、イギリスよりははるかに慎重な姿勢を取っている。
一般事件では容疑者のファーストネームは書かず、ファミリーネームの頭文字1字を出すだけで、被害者については原則、名前を掲載しない。
ドイツの新聞報道の編集規定を決めているのは、新聞や雑誌の発行者やジャーナリスト、労組などが会員となる「ドイツ・プレス・カウンシル」だ。
プレス・カウンシルが作成する編集規定によると、冒頭にあるのが「真実性と人間の尊厳の維持」である。「新聞の最も重要な原則とは、真実に敬意を払い、人間の尊厳を守り、一般市民に正確な情報を与えることである」(「セクション1」)。
人間の尊厳がまず入っているあたり、イギリスの報道指針とはずいぶんと違う印象がある。
「セクション8」は「人物の保護」である。「新聞は、その人物の生活および彼・彼女の個人情報についての自己決定権に敬意を表する。しかし、その人物の振る舞いに公益性があるとき、新聞は議論をすることがある」、「匿名化が必要な場合、これが実行されなければいけない」。
同セクションの中の「犯罪報道」(ガイドライン8-1)では、個人の保護以上に報道する公益がある場合にのみ、「容疑者あるいは犯罪者の名前、写真、そのほか個人の特定化を可能にする情報を公開する」。(ガイドライン8-1-2)。
ガイドライン8-2「犠牲者の保護」では、「犠牲者はその身元情報について特別の保護を受ける権利を持つ。犠牲者の身元情報についての知識はその事件発生の理解に、一般的には関係がないものである」。犠牲者の情報が報道されるのは、同意を与えた場合か犠牲者が公的な人物である場合のみ、である。
編集規定「12」では、差別を防ぐため、容疑者が特定の人種や宗教の信者であるかどうかの報道をしないこと、としている。
ところが、これが次第に実情とは合わなくなってきた。
2015年の大みそかから新年にかけて、ケルン中央駅や大聖堂前で北アフリカ系・アラブ系の男性たちによる、女性たちへの集団性的暴行事件が発生した。
この時、目撃者は男性たちの人種をメディアに伝えていたが、プレス・カウンシルによる編集規定を守った多くのメディアが当初、この要素を報道しなかった。
ドイツはナチス政権時代に人種差別による犯罪が行われたことを反省し、この要素を報道することへの躊躇もあったといわれている。
しかし、「事実を隠している」、「真実を伝えていない」という批判が発生し、プレス・カウンシルは人種などの情報を「公益性がある」と認められた時には報道してよいと姿勢を緩やかにするようになった。
「MeToo」時代のスウェーデンに吹く風
スウェーデンにも、変化が押し寄せている。
2018年、スウェーデンのプレス・カウンシルは性犯罪・性被害を告発する「MeToo」に絡んで、スウェーデンの新聞が正当な理由がなく「容疑者」とされる人物についての報道を行っている、と指摘した。
スウェーデンの編集規定は、「個人の私的生活に対する権利に敬意を表されるべき」とする(「セクション15」)。
例外は「否定できないほどの公益性がある場合」である。このため、犯罪の容疑者の名前は原則、報道しないことになっている。報道されるのは、その人物が政治家、企業の最高経営責任者など、いわゆる公人や社会的に責任を持つ地位にいる人物が容疑者となった場合のみだ。
しかし、MeTooが広がったことで、複数のスウェーデンのメディアが裁判で正式に容疑者とされる前に、犠牲者とされる人物に容疑者であるといわれたことを根拠にして名前を出して報道するようになった。
例えば、2018年6月25日、スベンスカ・ダブブラデット紙は12人の女性たちから性被害にあったといわれた人物の名前が入った記事を掲載した。
掲載の前に、新聞社の中で事情の調査はしたものの、スウェーデンのプレス・カウンシルはこうした調査は容疑者の名前の報道の十分な理由にはなりえないとする判断を示した。
文化や歴史によって、どうするべきかが変わってくる
どこまで情報を出すべきなのか、「公益」をどう定義するのか?その国の文化や歴史によって、どこで線を引くかが決まってくる。
イギリスの報道機関は攻撃的だ。権力者ばかりか一般市民をも被害者にするイギリス風報道は、必ずしも日本には合わないのではないか。
日本の報道機関には、今後、国民と対話をしながら、ドイツあるいはスウェーデンのメディア報道のやり方も参考にしながら、最善の方法を見つけていってほしい。
「実名か匿名か」とメディアスクラム問題
前回の記事を出した後で、ツイッターを中心にして多くの方の反応が寄せられた。
記事を読んだ後でコメントを寄せる方もいれば寄せない方もいるので、必ずしも頂いた感想が全体像を表すものではないのかもしれないが、圧倒的に「被害者の実名は出さないでほしい」という声が多かった。
そして、最も心配していることの1つは実名が出てしまうとメディアが殺到してしまう、つまり「メディアスクラム」だった。
メディアに対する不信感を表明する人も、かなり多かった。
この「実名報道か匿名報道か」の議論には、「メディアスクラムをどうするのか」、「メディアに対する不信感をどうするか」という論点を同時に俎上に載せる必要がある。
今後も、継続してこのトピックを追っていきたい。
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参考
▽ドイツのプレス・カウンシルのウェブサイト(英語)、右端から編集規定をダウンロードできる
▽スウェーデンの報道事情とその変化
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◇この記事はYahoo!ニュースとの連携企画記事です。大きく報道される事件が発生するたび、氏名や顔写真の報道を巡って議論が過熱しています。なぜ、実名報道でメディアとユーザーは対立してしまうのか。考えるヒントとなる記事を不定期で連載します。