中国で26年前に自分を誘拐した犯人を見つけた男性が直面した現実
26歳の男性は20歳になった頃、突然、親から「本当の子ではない」と告げられた。誘拐の被害者だったのだ。その後、自らの誘拐に関わった男たちを突き止めたものの、冷酷な現実に直面した。
ボロボロの紙に残された手がかり
中国メディア上游新聞が、誘拐被害者の牛雨航さんの体験を詳しく報じた。
牛雨航さんは河北省邯鄲市で育った26歳の男性。二人の姉と共に両親に可愛がられて育ったという。母親は彼を育てるために、代講教員の仕事を辞めて家に入り、農業をしていた。牛さんが小さい頃は、二人の姉が学校への送り迎えをしてくれた。豊かではなかったが、楽しく暮らしていたという。
牛さんが20歳になった頃、両親から「実は本当の子ではない」と打ち明けられた。両親から、人生に悔いを残さないためにも生みの親を探すようにと、諭された。その時見せられたのが、ボロボロになった一枚の紙。「証明書」と手書きされ、牛さんの生みの親の住所などが記されていた。
故郷の村に現れた三人組
牛さんの養母によれば、今から26年前の1997年、故郷の村に男の赤ちゃんを連れた男二人と女が現れた。彼らは赤ちゃんの叔父や伯母だと名乗り、村の何軒かの家を尋ね歩いた。貧しくて育てられないので赤ちゃんを引き取ってくれる家庭を探しているという話だった。
牛さんの養父母は、最初、その赤ちゃんが死にかけていると感じたという。色が黒く痩せ細っており、見るのも痛ましかった。養父母は男の子に恵まれなかったことから、この赤ちゃんを養子にしようと決めた。だが、誘拐された子供ではないかと心配して、叔父を名乗る男に、証明書として赤ちゃんの生みの親の住所と名前などを書かせた。それがあれば、将来、生みの親を探す時の手がかりになる。その住所は、河北省から離れた陝西省の農村だった。
叔父を名乗る男たちは、その夜は牛さんの養母の実家に泊まり、夜明けと共に去って行った。その二日後、三人は戻ってきて、「栄養費」と称して9000元(現在のレートで約17万円)を要求した。当時、9000元は安い金ではない。養父母は親戚から金をかき集めて支払った。金を受け取った後、“叔父”たちは村を去りその後連絡を取ることはなかった。
自分は3回売買されていた?
牛さんは、養父母と二人の姉に背中を押され、生みの親を探し始めた。誘拐被害者の肉親探しを支援する団体や警察のDNAバンクを通じてもまだ見つかっていない。ただ、養父母の元に自分を連れてきた、叔父と称した男は見つかった。だが、叔父というのはウソで、生みの親を知らず、赤ちゃんは別の男から受け取ったと話した。その男も、すでに死亡した別の男から赤ちゃんを受け取っていた。
牛さんは少なくとも3回は売買されていたわけだ。ボロボロの紙に記された生みの両親の手がかりはウソだった。
警察に情報提供、その結果は?
牛さんは、自らの誘拐に関わった叔父と称した男らの情報を、男の住む地元の警察に提供した。だが警察から届いたのは「立件しない」という通知だった。立ちはだかったのは、中国の刑法が規定する20年という訴追時効だった。牛さんはこれを不服とし、今月16日に検察に立件を求める申請をしたが、結果はまだ出ていない。
牛さんは上游新聞の取材に対し、「自分を誘拐した犯人たちに法の裁きを受けさせられないというのは、気持ちとして納得がいかない」と話している。
中国では、過去、児童誘拐が多発した。伝統的な価値観から家の後継として男の子が売買されるなどの背景があった。近年は警察の捜査能力の向上で十数年ぶりに実の親子が再会できたなどの例も増えているが、そうした中で明らかになったのは、あまりに長い時間がかかったために、子を誘拐された親、誘拐された子、誘拐された子を育てた親のそれぞれが長く深く心に受けた傷跡だ。そして今回は、時効という壁の存在が被害者をさらに傷つけた。
牛さんは取材に対し「もし養父母の愛がなければ、今のように生みの親を探す機会はなかったでしょう」とした上で、こうも話している
「もし機会があれば生みの両親に対しこう言いたい。当時どんな事情があったにせよ、私は二人を許しているし、今、息子は大きくなったので迎えにきて欲しい」