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30年前の10月14日、近鉄優勝! その1年前のドラマを覚えていますか?【5】

楊順行スポーツライター
1988年10月19日、ロッテとの第2試合9回表、最後の打者となった羽田耕一(写真:岡沢克郎/アフロ)

 1988年10月19日、ロッテとのダブルヘッダー第1試合に勝利した近鉄は、勝てば奇跡の優勝が決まる第2試合も、8回の表を終えて4対3とリードを奪っていた。8回裏の守り、マウンド上には阿波野秀幸。1死を取り、打席の高沢秀昭にフルカウントの局面である。阿波野は、捕手・山下和彦のストレートの要求に、一瞬迷い、そして首を振った。

「もちろん、山下さんは信頼していました。それより、自分の球威を信頼できなかったんですね。だから、スクリューを投げたかった。空振りさせたスクリューもいいコースだったし、もう1球そこに投げる自信もある。長打だけは避けたい場面で、低めの変化球なら打たれてもヒットですむ、という計算もありました。ただ、フルカウント。高沢さんは足もあるから、四球は出したくないという守りの気持ちが多少あったんでしょう。ストライクがほしい、と……」 

 阿波野の6球目だった。決して悪いコースじゃなかったが、意識の比重をスクリューにも置いていた分、高沢のバットは沈むタマをうまく拾った。レフトへ、低い弾道のライナーが伸びる。少なくとも、ヒットにはなる。グラウンドがせまい川崎はその分、外野のフェンスが高い。風は左から右、逆風だ。届かないでくれ、越えないでくれ。日本列島のいたるところで、そんな声が聞こえたはずだ。現に僕はその日、なじみの居酒屋でテレビ観戦していたのだが、その店内でも悲鳴が上がった。小規模なパブリックビューイングの会場だと思えばいい。

同期の大石がうなだれて……

 だが……低い弾道は逆風の影響もさほどなく、白球はレフトスタンドに飛び込んでしまった。高沢の16号同点ソロで、4対4……。

「当時の僕は、首位打者争いで毎日がいっぱいいっぱいでしたから、当たった瞬間”これはヒットだ“とホッとしましたね。ただ、ダイヤモンドを回るときに、同期の大石(第二朗・二塁手)ががっくりとうなだれているのを見たときは……複雑ですよ。申し訳ないな、ホームランじゃなくてもよかったのに、という気持ちでした」

 そして結局……。

 高沢のホームランのあと、延長10回まで両チームは点を取れなかった。当時パ・リーグには、4時間を超えたら新しいイニングに入らないという規定があった。その時間が迫っている。10回表の近鉄は、1死一塁と必死に食い下がったが、羽田耕一が二塁ゴロ併殺に倒れて0点。この時点で3時間57分を経過していたから、事実上近鉄の勝ちは、そして優勝はなくなったわけだ。マウンドに立った加藤哲郎が「投球練習はいらんから、早く打席に入ってくれ!」と悲痛に叫んでも、時計の針は止まってくれない。西武球場では、優勝を決めた西武ライオンズの胴上げが始まった。延長10回、時間切れ引き分け。試合終了は、午後10時56分。神が演出した試合の、痛切で残酷なエンディングだった。

1988年10月19日 川崎球場 第2試合

近 鉄 000 001 210 0=4

ロッテ 010 000 210 0=4

有藤監督の執ような抗議

 この引き分けで、パ・リーグの首位争いはこうなった。

1 西武 73勝51敗6分け 勝率.588

2 近鉄 74勝52敗4分け 勝率.587

 勝ち星で上回った近鉄が、勝率でわずかに及ばなかったわけだ。書きたいことはほかにもある。9回表と9回裏、それぞれ決勝点を防いだロッテ・水上善雄、近鉄・淡口憲治の超美技。時間との戦いにもなってきた9回裏、二塁走者・古川慎一のけん制死をめぐって、有藤監督が執ように抗議した9分間。そしてなにより、10回裏、ただ手続き上のためにあてのない守備についた近鉄ナインのやるせなさ。もう優勝はないのに、なぜ守らなければいけないんだ、4時間で打ち切りなんてだれが決めたんだ……。そして高沢は、3試合残っていた阪急との直接対決で、首位打者を争う松永浩美に11打席連続四球という自軍投手陣の露骨で興ざめなアシストを受け、1厘差で首位打者を獲得した。

「10・19」の悲劇から約1年後の89年10月12日。やはり熾烈な首位争いを繰り広げる近鉄は、ブライアントが4本塁打と爆発するなどして西武とのダブルヘッダーを連勝。そして10月14日、藤井寺球場でダイエーを下し、こんどこそ優勝を果たしている。2位オリックスとのゲーム差はゼロ、3位西武とも0.5差という未曾有の混戦。胴上げ投手は、阿波野である。最後の打者・伊藤寿文には、後悔とともにずっと心にうずくまっていたスクリュー、高沢に同点ホームランを打たれたスクリューを1球も投じることなく、すべてストレートで三振に取っている。

【1】の冒頭にふれたように、引退して解説者となっていた梨田は、この優勝を取材先のサンフランシスコのホテルで知った。「いつか10・19当時のメンバーを集めて、延長戦の続きをしようや……そう思っているんです」。のちに、そう話していたことを思い出す。その伝説的な「10・19」から、今日で31年がたつ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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