【深掘り「鎌倉殿の13人」】ドラマでは瞬殺された、阿野全成の遺児・時元とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では源実朝が殺害され、その後継者として阿野全成の遺児・時元がクローズアップされたが、詳しく掘り下げてみよう。
■阿野全成とは
仁平3年(1153)、阿野全成は源義朝と常盤御前の子として誕生した。全成は阿波局を妻とし、運命が大きく変わった。阿波局は北条時政の娘であり、北条政子(頼朝の妻)の妹でもあったので、全成は北条一族との強いつながりを持ったのだ。
さらに、阿波局は頼朝の子・千幡(のちの実朝)の乳母になった。乳母は子の両親から信頼を置かれた人物がなり、しかも子の成人後は、大きな発言力を持つことになった。それは、乳母の夫も同じである。
■全成の死
建久10年(1199)、頼朝が亡くなると、頼家が次の征夷大将軍となった。頼家を支えていたのは、比企能員ら比企一族である。北条時政は危機感を抱き、やがて全成と結託した。結果、2人は頼家そして比企一族と対立の様相を呈する。
『吾妻鏡』建仁3年(1203)、全成は謀反の嫌疑で武田信光に捕らえられ、その身柄は宇都宮四郎兵衛に預けられた。同年5月25日、全成は常陸国に流罪となり、6月23日に下野国で八田知家に殺害された。知家に全成の殺害を命じたのは、頼家だった。
■まとめ
全成には頼全という男子がいたが、同年7月に京都で殺害された。しかし、もう1人の子の時元は生き残った。全成が殺害されたとき、時政と政子が時元の命を救ったという。時元は、数少ない源家正統の血を受け継ぐ1人だった。
どうにか時元は生き延びることができ、父の残した阿野荘(静岡県沼津市・富士市)に隠れ住んでいた。実朝の死によって、にわかにその存在が大きくクローズアップされたのである。
ドラマの中では、阿波局が時元に対して、「次の鎌倉殿に!」と猛烈に説き伏せていた。実はその後、時元は将軍職を望んで挙兵するのだが、その辺りは改めて述べることにしよう。