樋口尚文の千夜千本 第100夜「星くず兄弟の新たな伝説」(手塚眞監督)
貴種映画サロンの映画降霊会
上野耕路さんのライヴに通っていると、よくよくヴォーカルで久保田慎吾さんの姿をお見かけする。それを一緒に聴いていた樋口真嗣監督に「星くず兄弟ですよね」と言われて、やっぱりそう思って聴いていたのかと懐かしさが充満するのだった。しかし、あれはもう33年も前の映画となってしまったし、久保田さんもあいかわらずのカッコよさとは言え、もう年季の入ったオジサンである。
手塚眞監督がどういう思いつきか、その世紀をまたいだ続篇を撮り出したと聞けば、それはちょっとシンパイにもなるだろう。冒頭、オヤジと化したシンゴが、今どきの若者からけったいな目にあって発奮し、夢よもう一度とやはりオヤジとなったカンを探し出して、再デビューをはかる……ここまではさてどうなるのやらと思うのだが、なんと二人はリ・エイジングマシンですっかり若者に舞い戻り、地球の芸能プロには愛想をつかしているので、月世界のプロダクションに身を寄せる(?!)というトンデモないお話だとわかるに連れ、もう無用のシンパイもどこかへ行ってしまうのであった。
そこからは全篇、この新生カン&シンゴ(三浦涼介と武田航平がフレッシュでいい)の月世界芸能界流離譚というのを口実に、手塚監督のお好みの俳優、歌手、映画監督はじめさまざまな仲間たちがウェスタンをやったり『マッドマックス』みたいなことをやったり、賑やかな「映画ごっこ」の祝宴が続く。「映画ごっこ」というのは喩えではなくて、劇中の随所をはじめエンドクレジット明けまで、これは手塚監督の撮影現場で行われているバカ騒ぎなのだ、ということが意図的にバラされるのである。言わば、手塚治虫のマンガでドラマが盛り上がってくるとヒョータンツギが出現して「これはマンガです」とクールダウンさせて照れ隠しをやるように、ここでは手塚監督が自らヒョータンツギを以て任ずるのであった。
その虚実の往還によって時には映画の本筋自体が(監督交代して!)リセットされたりするのだが、そんなわけでこの作品は手塚監督の招待状を授かったファンタスティック・パーティーが集まって、その肩の力の抜けた撮影現場というサロンでワイワイと「映画ごっこ」を繰り広げる‥‥そこにあわよくばホンマモンの映画の神が降ってこないかなあと手塚監督がすっとぼけて天空を仰いで待っているような、まあひとことで言えば生粋のデイレッタントの映画なのである。もちろん資金繰りも含めて映画の撮影現場は大変であったことは容易に推察できるのだが、それでいてこの作品世界のマイペースさはちょっとカツカツしたインディーズ映画作家などにはまねのできない優雅さと言えるだろう。この手塚監督の育ちのよさは無敵である。
そもそも33年前の”前作”も俳優からミュージシャン、文化人まで膨大な〈手塚眞の仲間たち〉が洪水のように登場し、その「映画ごっこ」の活気と喧騒のはてになんともいえないリリカルさが漂った佳篇だった。その人物たちの人選の好事家的凝り具合は今観るとよけいに際立つのだが、今回のキャストの顔ぶれもガンマンの浅野忠信(『幼な子われらに生まれ』の熱演のそばからこういうやんちゃぶりも愉しんでいるのがとてもいい)や冗談のようなヒロインぶりの板野友美からキュートなピンナップガール的脇役陣まで、まさに手塚監督の「好きなものパフェ」みたいな感じであった。「映画は戦場だ!」と言ったのはサミュエル・フラー、「映画は祭りだ!」と言ったのは深作欣二、そこに加うるに「映画はサロンだ!」と手塚眞は33年前と変わらぬマイペースさで軽やかに歌う。
それでも泣ける献辞の捧げられたマリモこと戸川京子も、尾崎紀世彦も、石上三登志も、容赦なく変わるものは変わるのであって、この手塚監督の変わらなさがこれからもゆったりそのままであることを、つい祈ってしまうのであった。ふつう作家には「変節」を期待するものだが、手塚眞は「不変ぶり」をこそ求めてしまう稀有な作家である。