【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条時政が就任した執権とは、権威ある職だった
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の33回目では、北条時政が執権になった。教科書でお馴染みの執権だが、いったいどういう職なのか、詳しく掘り下げてみよう。
■執権の語義
日本史の教科書などでは、北条氏が執権となったことを記しているので、その事実は多くの方がご存じだろう。『精選版 日本国語大辞典』には、基本的な意味として「政権をとること、権勢をふるうこと。また、その人」と定義されている。もう少し詳しく考えてみよう。
そもそも朝廷には記録所(荘園整理事業のための役所)が設置されており、その職員が弁(文書事務を扱う職員)の別当として執権と呼ばれていた。また、院庁(上皇直属の政務機関)の別当(長官)を執権と呼ぶこともあった。
鎌倉幕府に政所(幕府の財政などを担当する機関)が設置されたとき、大江広元が別当に就任した。一説によると、別当を院庁の場合と同じく、執権と称したといわれている。
■北条時政の執権就任
建仁3年(1203)7月、2代将軍の源頼家を伊豆の修禅寺に放逐すると、弟の実朝が12歳で征夷大将軍の座に就いた。同年10月、実朝の祖父でもある北条時政は、政所の別当に就任した。すでに広元が別当を務めていたので、2人体制になったのである。
その後、政治的権勢を獲得した時政は、幕府の実権を掌握し、やがて執権とみなされるようになった。ただし、時政を初代執権としてカウントするか否かは、少しばかりの議論がある。
建保元年(1213)、時政の子・義時は、侍所別当の和田義盛を攻め滅ぼした(和田合戦)。戦後、義時は侍所別当に就任した。すでに義時は政所別当だったので、2つの別当を兼ねることになった。以降、政所と侍所の両職を兼ねる者が執権と称されるようになった。
執権とは将軍を補佐し、政務を統括する幕府における最高の権威ある職になった。同時に、執権は代々北条氏によって世襲されたのである。
■まとめ
補足すると、執権の補佐職として連署なるものがあった。北条泰時が執権に就任したとき、叔父の時房が任じられたのがはじまりである。こうして幕府内における北条氏の体制は、盤石なものになったのである。