【私と朝ドラ『虎に翼』4】戦争体験者の90代インフルエンサーが朝ドラ『虎に翼』に希望を感じる理由
朝ドラ(NHK連続テレビ小説)をあまり観ない、あるいは1度も観たことがないという人をも巻き込むムーブメントとなっている『虎に翼』。女性法律家のさきがけ・三淵嘉子をモデルとした、吉田恵里香脚本×伊藤沙莉主演の朝ドラについて市井の方々に聞く連載第4回では、SNSの有名人にご登場いただいた。
『虎に翼』は「頭が良く、はっきりモノを言う主人公が好き」
フォロワー82000人超の90代インフルエンサー、X(旧Twitter)アカウント名「わたくし95歳」さんこと、森田富美子さん。朝ドラは、「昔は観たこともあるけど、今は大谷翔平さんが好きで、朝から野球ばかり。テレビを見るのはニュースと国会くらい」という森田さんが『虎に翼』を観るようになったきっかけは、長女の勧めからと言う。
「娘がSNSのハッシュタグなどで盛り上がっている、今回は良さそうだと言って、録画してくれています。もともと朝ドラは、言葉は悪いけど、バカなお姉ちゃんが登場するのが嫌で、そこから観なくなっちゃう。でも、今回は主役が好き。ものすごく頭の良い方で、たぶん(演者本人も)普段からそういう方なんじゃないかと思って観ています。ただ、昔の女性にあんなふうにはっきりモノを言う人はいなかったと思うけど。はっきりモノを言う女性は敬遠されたから」
かく言う森田さんだが、実は「はっきりモノを言う女性」のさきがけ、まさしく『虎に翼』主人公・寅子のような女性だった。
「長崎に今も仲良しの同級生が2人いるんですが、そのうちの一人“きんちゃん”に1カ月くらい前に電話したんですね。そしたら、SNSを見て下さっているようで、『あなた、勇ましくいろいろ書いているけど、昔からそうだったもんね。みんなの前で我々は~と言って演説し、正義を語っていた』と言われました。私は全然覚えていないんですけどね(笑)」
学徒動員で勉強できなかった女学生時代。「勉強したい」思いから校長に直談判した”リアル寅子”的逸話も
森田さんが女学校1年生(16歳)のときは、学校に通わず学徒動員で、8月9日に長崎の原爆投下、15日に終戦となり、その後は女学校2年生、3年生となった。しかし、勉強も学校生活も思うようにできなかったため、卒業前に校長先生に直談判したというリアル寅子的なエピソードもある。
「校長室に1人で行って、あと1年でいいから学校に残して勉強させてくれと校長に訴え、1年間延長してもらいました。原田校長という女の校長で言いやすかったのかもしれません。学校はそれまでなかった『専攻科』を作り、希望者を残してくれました。それで私と一緒に最後まで残って勉強した専攻科の友達が8人。その1人がきんちゃんでしたが、みんな仲良しでしたよ」
『虎に翼』女子部法科の“魔女5”ならぬ“魔女8”のような話だが、仲間をつないでいたのも「勉強したい」思いだった。
「専攻科仲間で今も仲良しの“ぶーちゃん”には、私が小さいのにいつもみんなを引き連れて歩いていたなんてからかわれました(笑)。不思議ですよ。私はあまり勉強していないし、特別目立つこともないし。ただ、校長の授業があって、朝日新聞の社説を毎日勉強していくことになっていて、なぜか私しか当てられないんです。私は迷惑でしたけど、考えてみると、母も新聞をよく読む人だったし、母方の親戚に東大に行っていた人もいたから、そういった意味では恵まれていたのかもしれません」
女学校ではクラスごとに畑を持っていて、残った8人の畑もあった。そのため、畑で芋を作り、教室でふかして食べ、職員室の先生方にもあげて喜ばれていたと話す。
「私と2歳下の妹はおじさんとおばさんの家で引き取られましたが、貧しくて食べ物も十分にない時代です。私と妹、いとこの弁当にご飯を入れるのは私の仕事でしたが、私は妹にたくさん食べさせたいから、自分の弁当は空にして妹に全部持たせて、私は学校でみんなと一緒にお芋を食べていました。楽しかったですね。それに、おじさんとおばさんはすごく良い人で、私たちをすごく可愛がってくれ、私が女学校に残って勉強するときも、『勉強したいんでしょ。残りなさいよ』と言ってくれました」
楽しそうに当時を振り返るが、実はこれらは原爆で家族を失った翌年~翌々年の思い出だ。
原爆で両親と弟3人を失い、すぐに終戦。「もうバカみたい」
1945年8月9日。長崎に原爆が投下され、爆心地から200メートルにあった自宅は全焼、両親と3人の弟が命を奪われた。そのとき、軍需工場にいた森田さんと、8月1日の空襲で機銃掃射を受けて以来、恐怖で地区の横穴にこもったままだった妹の2人だけが生き残った。森田さんは瓦礫の上にトタンをのせ、そこに両親と弟2人(次男・三男。小5の長男は川エビとりに行ったまま被爆)を並べ、1人で火葬したと言う。
「どうしてかはわからない、たぶん一生懸命だったせいだと思いますけど、私、涙が全然出ないんです。自分でも不思議に思うし、友達からはいろいろ慰めの言葉をかけられたり、『あんた強いね』と言われたりしましたけど、当時は泣いたことが一度もありませんでした。原爆で家族を失ったのは9日で、終戦は15日。本当は原爆投下前から空襲で日本中がボロボロだったのに。もうバカみたいだと思います」
江戸川区の原爆犠牲者追悼碑の前で初めて涙が
そんな森田さんが初めて涙を流したというのが、今年の8月9日。長女から江戸川区の葛西に原爆犠牲者追悼碑があると聞いて参拝に行ったと言う。
追悼碑は昭和56年、広島・長崎に投下された被爆者とその二世で、区内に在住する方々で作る「親江会」会員らによって江戸川区立滝野公園に建立された。高齢により、広島・長崎への参拝が年々困難になっている方々が、身近な場所で墓参できるようにと、被爆者と区民によって手作りされたもの。追悼碑の前に立つと広島・長崎の方角へ向いて手を合わせることができるようになっており、また、「成長する碑」とも呼ばれ、広島・長崎から送られた被爆瓦の碑、噴水、平和の鐘、広島・長崎両市の木、犠牲者名簿碑などが追加され、進化している。
「江戸川区役所の職員の方たちも毎年お参りに来てくださるそうで、私が行ったときにはたくさんの方が順番に献花し、お参りしてくださっているのを見たら、本当にありがたいなと思いました。娘がずっとラジオを聴いていて、原爆投下時刻の11時2分ですよと教えてくれ、碑の前で手を合わせたら、自然と涙が出てしまったんです」
「この戦争は日本が仕掛けた戦争だったんだ」
森田さんは原爆でなぜ家族が亡くならなければいけなかったのかということが、どうしても納得できず、ずっと戦争の意味を考え続けてきた。戦時中はニュースで真珠湾攻撃の映画を観て、みんな喜んでいた。しかし、40代後半くらいになると「この戦争は日本が仕掛けた戦争だったんだ」という思いが強くなり、腹が立って仕方なくなって、ハワイに行きたいと思うようになったと言う。
「そんなとき、いとこにハワイのツアーがあるから行かないかと誘われ、息子が旅費を出してくれて行ったんです。いとこたちが観光している間、私は誰にも言わず、1人で真珠湾にお参りに行きました。びっくりしたのは、すごく静かで広いところに戦艦がそのまま沈めてあったこと。お参りに行けて本当に良かったと思います」
関東大震災での朝鮮人虐殺、総力戦研究所……なぜ日本は突き進んでしまうのか
戦争で家族の命を奪われた森田さんだが、それでアメリカを憎むわけではない。と同時に、日本人による「加害」も決して忘れてはいけないことだと言う。
「『虎に翼』の中で、関東大震災のときの朝鮮人虐殺が描かれましたよね。あれは本当のことですから。でも、今はそういう話を誰もしなくなった。私は週3日運動に通っているのですが、そこに通っているのは若くても70代後半くらいなのに、戦争の話や原爆の話、政治や社会の話は誰もしません。そんな中、NHKのドラマは頑張っていると思いますよ。事実なのだから、ちゃんと出した方がいいですよね。それなのに追悼文を出さない小池都知事は駄目だと思います」
また、『虎に翼』では航一がかつて「総力戦研究所」に所属していて、日本が負けることがわかっていたのに、日米開戦を止められなかったと悔いも描かれた。
「山本五十六は先頭に立って真珠湾攻撃を実行した人だと思っていたけど、実は戦前にアメリカに滞在し、見分を広めた経験から、『アメリカとは戦争すべきではない』と最期まで反対した人でもあるんですよね? それでも政府は戦争に突き進んでいった。なぜなのか。日本は見栄っ張りで、プライドが高くて、軍縮する必要などないと思ったんでしょうか。失敗だとわかっていても、問題が明らかになっていても、それを認められず、いったん決まったものはやめられない、引き返せないのは今も同じではないですか」
「原爆裁判」を朝ドラで描くことへの思い
今週(第20週)からドラマでは原爆裁判が描かれていく。
「裁判では『原爆投下は明らかな国際法違反』とされました。それなのに、今もあちこちの国で核兵器を持ちたがっているし、今もあちこちで戦争をやっている。広島、長崎に続いて、次にまた原爆が落とされたら、もう日本はなくなってしまいます。私の父親の弟は子どもを4人残して終戦間際に召集され、戦わずして途中で沈められて亡くなっていきました。それを思うと、私はつい20代の孫2人に、結婚は急ぐなと言ってしまいそうなときがあるんです。もしまた戦争を始めたら、若い人たちは無理矢理戦争に駆り出されてしまうから。強い軍隊を作ったら良いなどという馬鹿なことを言う政治家もいます。政治家は自分たちさえ良ければ良いんですよね。自分たちがやっていることの意味が全くわかっていないんです。それに、今のままで良いと思っている人達が多いことにも恐ろしさを感じます。朝ドラなどを見て、戦争がどういうものなのか、皆さんが少しでも理解してくれたらいいなと思うのですが」
今年は終戦から79年。この間、森田さんは毎年7月の終わり頃から8月9日にかけて、原因不明の体調不良を繰り返していると言う。
「血圧も200を超えて、運動がお休みになりました。また、頭痛も酷いので、痛み止めや血圧の薬を増やしてもらっています。原因はわからないですが、毎年8月9日に近くなると、何年経ってもこういう状態になるんです」
一昨年、次男家族と次女が遊びに来てくれ、自由が丘で食事の席を設けてもらったときには、みんなにこんなお願いもしたと笑う。
「私はまだしばらく生きたい。そして、核兵器反対、戦争反対を訴え続けていきたい。それでもし私が死んだら、お骨はお墓の中に入れず、散骨して下さいと言ったんです。そしたら、孫が『じゃあ太平洋に散骨しようか』と言ってくれました(笑)。私のことをチラッとでも思い出したら、空を見てニコって笑ってくれたら私はそれで良いんです」
家族を戦争で奪われた森田さんの戦いは今も続いている。
(田幸和歌子)