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【戦国こぼれ話】蒲生氏郷は、豊臣秀吉や石田三成に毒殺されたのか。その衝撃的な謎と真相に迫る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
興徳寺(福島県会津若松市)の蒲生氏郷墓所。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 最近、福島県会津若松市の鶴ケ城では、蒲生氏郷がモデルの「のぼり旗」が盗まれるそうだが、止めてほしいものである。ところで、氏郷は毒殺されたといわれているが、真相やいかに。

■蒲生氏郷とは

 蒲生氏郷が賢秀の子として誕生したのは、弘治2年(1556)。もともと氏郷は父ともども織田信長に仕えていたが、信長が天正10年(1582)6月の本能寺の変で横死すると、その後は羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。

 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い後、氏郷は伊勢松ヶ島(三重県松阪市)に加増された。

 天正18年(1590)の秀吉による奥州仕置後、氏郷は会津(福島県西部)に42万石を与えられた。

 秀吉が氏郷に会津を与えた理由は、東北の諸大名に対する押さえとしてだった。いかに、秀吉が氏郷を重用していたかがわかるだろう。

■氏郷の死

 文禄元年(1592)の朝鮮出兵には、氏郷も肥前名護屋(佐賀県唐津市)に出陣した。しかし、氏郷は急に著しく体調が悪くなり、翌年11月には会津への帰国を余儀なくされた。

 氏郷の病状は悪化する一方で、快方に向かわなかった。氏郷は文禄3年(1594)に上洛し、医師の曲直瀬玄朔の治療を受けるなどしたが、病状は好転しなかった。

 結局、文禄4年(1595)2月7日に氏郷は京都伏見(京都市伏見区)の自邸で病没した。享年40。

 家督は子の秀行が継承したが、のちに家中騒動によって、下野宇都宮(栃木県宇都宮市)12万石に減封された。

■毒殺説は本当か

 ところで、氏郷は病気で亡くなったのではなく、秀吉あるいは石田三成に暗殺されたという説がある。果たして、それは事実なのだろうか。

 毒殺説が記されているのは、『氏郷記』なる氏郷の一代記である。同書には、文禄4年(1595)に三成が豊臣秀吉と謀って、氏郷に毒を盛ったと書かれている。

 ところが、当時、三成は朝鮮にいたので、氏郷に毒を盛れるわけがなく、現在では否定されている。『氏郷記』は後世に成立した潤色の著しい史料で、信頼度が落ちることも理由の一つである。

 三成による毒殺説は、『石田軍記』、『蒲生盛衰記』などにも記されている(直江兼続との謀議説もある)。編纂物の『石田軍記』、『蒲生盛衰記』も『氏郷記』と同じことで、記述内容が信用できない。

 氏郷が病気になった際、医師を手配したのは秀吉である。先述した曲直瀬玄朔のほか、施薬院全宗や一鷗軒宗虎などの名医が輪番で治療を施したという。

 ところで、氏郷の死因に関しては、曲直瀬玄朔の残した『医学天正記』に詳しく書かれている。

 氏郷は朝鮮出陣前の名護屋城で発症しており、診断の結果からして、直腸癌、肝臓癌あるいは肝硬変などの症状があったとされている。ただ、病名はあくまで推測の域を出ない。

■まとめ

 このように比較的信頼のおける史料に氏郷の病状が記されており、その死因も推測できるので、秀吉や三成による毒殺は考えにくく、とても信が置けないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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