中距離核戦力全廃条約の破棄による太平洋での核戦力配備の影響
10月20日、アメリカのトランプ大統領はロシアと結んでいるINF条約(中距離核戦力全廃条約)を破棄する意向を表明しました。ロシアがINF条約に違反するミサイルを配備していることが原因だと主張、アメリカだけが条約に縛られているわけにはいかないという理由です。INF条約は射程500~5500kmの中距離核戦力を投射する兵器を全廃する条約で1988年に発効され、アメリカはパーシング2弾道ミサイルとグリフォン巡航ミサイル(トマホーク地対地型)、ロシア(当時ソ連)はSS-20(RSD-10)弾道ミサイルを廃棄しています。
ロシアのINF条約違反ミサイル
ロシアがINF条約に違反している疑いは数年前からアメリカ政府によって公式に指摘されていて、2014年にロシアが地上発射型巡航ミサイルの発射実験を行った際にINF条約違反だと当時のアメリカのオバマ政権が抗議しています。そのミサイルはNATO名称「SSC-8」、ロシア側の名称は「9M729」で、搭載車両はイスカンデル弾道ミサイルと共通なのでイスカンデル巡航ミサイル型と呼ばれる場合もあります。このミサイルはロシア海軍向けの巡航ミサイル「カリブル」の派生型と推定されていて、低空を亜音速で飛翔し2000~2500kmの射程を有しています。カリブルは海軍艦艇からシリアへ発射され実戦投入されており、この時に最低でも1500kmは飛翔できることが確認されています。なおアメリカから公式に違反が名指しされているのは現時点ではSSC-8だけですが、実は他にも疑われているミサイルがあります。
- SSC-8地対地巡航ミサイル カリブル巡航ミサイル派生型であり、射程2000km超
- イスカンデルM弾道ミサイル 短距離弾道ミサイルだが射程500kmを超えている疑い
- RS-26ルベーシュ弾道ミサイル 射程5500km以下の中距離弾道ミサイルの疑い
イスカンデルM短距離弾道ミサイルは射程500kmを超えている疑いが以前から指摘されており、日本の防衛省の文書”将来の地対艦ロケット(PDF:709KB)”にも「M型は500kmを超える能力があるが米ロ間で結ばれたINF条約に抵触しないため公称400kmとしたと言われている」と疑いの旨が記載されています。またロシアからイスカンデルの技術を導入した韓国軍の「玄武2」弾道ミサイルは容易に射程800kmまで性能を伸ばしており、元の設計に大きな余裕があるのではと見られています。
RS-26ルベーシュ弾道ミサイルは6軸12輪の移動発射機に搭載される実戦配備前のミサイルです。現用の地上移動式長距離弾道ミサイル「トーポリM」や「ヤルス」が8軸16輪の移動発射機であり、これに対してRS-26ルベーシュは車両もミサイルも相応に小さくなっているので射程が短くなっていると考えられます。ただし射程5500kmより長ければ長距離弾道ミサイル扱いとなる為、INF条約違反である中距離弾道ミサイルかどうかは判断が難しい部分があります。なお2018年3月にRS-26ルベーシュは開発が凍結されるとロシアで報道されていますが、INF条約が破棄された場合は開発が再開される可能性が有り得ます。開発が再開された場合、逆説的にこのミサイルが中距離である可能性が高まります。
NPR2018での海軍戦術核の復活
INF条約は地上配備の中距離核戦力を制限する条約で、空中や海上、海中は対象ではありません。その為、それらは別の枠組みで制限を掛けています。アメリカはブッシュ父政権時代に海軍戦術核(戦略原潜のSLBM以外の全て)を全廃する方針を決め、トマホーク巡航ミサイル核攻撃型は退役していました。それを2018年2月に発表した「核態勢の見直し(NPR)」で方針転換し、核攻撃型巡航ミサイルと低出力核弾頭型SLBMを配備して海軍戦術核を復活させる方向です。これはロシアのINF条約違反への対抗措置でしたが、INF条約を存続させたまま骨抜きにしようと試みるものでした。しかしINF条約を破棄するとなった以上は、NPR2018は内容を修正ないし追加する必要が生じるでしょう。
その他の国の中距離核戦力
INF条約はアメリカとロシアの二国間条約であるため中国は関係が無く自由に中距離核戦力を配備しています。アメリカのトランプ大統領はこのことも不公平な面であるとINF条約破棄の理由の一つとして挙げていますが、INF条約当事国以外の中距離核戦力に対抗したいのはアメリカだけでなくロシアも同様です。実はロシアも2007年にINF条約の不平等性を訴えて、多国間条約に発展できなければ自らの条約脱退を示唆したことがありました。これはハッタリではなく、この時に既にロシアはINF条約に違反するイスカンデル巡航ミサイル型SSC-8の試射を実施しています。INF条約破棄の兆候はこの時に既に生じていました。そしてINF条約を多国間に発展させることはそもそも無理でした。
アメリカが新たに用意する中距離核戦力とは
アメリカはINF条約を破棄する意思を固めましたが、ロシアが違反しているから破棄するという流れであるため、アメリカ自身は中距離核戦力をまだ用意しておらずこれから新たに開発することになります。地上発射型の中距離弾道ミサイル、巡航ミサイル。相手国から中距離の位置に配備する以上、生存性の低い固定サイロ式は論外であり、車両に搭載する地上移動式が候補になります。しかし車載移動式ミサイルは「移動し隠れながら逃げ回る」ことで生存性を上げるので比較的広い土地に展開できるヨーロッパならばともかく、太平洋方面に配備する場合は問題が生じてしまいます。
太平洋に地上配備型中距離核戦力を配備する場合
- グアム 土地が狭く移動し隠れることが出来ず移動発射機は不向き
- 日本 政治的に配備が困難、ただし位置的には最適
- 韓国 政治的には容易だが北朝鮮の非核化の失敗が前提
- フィリピン 政治的に配備が困難、軍事的には空軍基地含む大戦力が必要
生存性や展開の容易さを考えると太平洋方面の中距離核戦力は地上配備型ではなく、海上ないし海中への配備が適切となりますが、それならばNPR2018の方針とあまり差が無いことになってしまいます。考えられる変更点としては、NPR2018での低出力核弾頭型SLBMは長距離弾道ミサイルである「トライデント」をそのまま使う予定だったのを中距離弾道ミサイルに変更して、グアムを母港とする原潜に搭載して普段は海中に潜ませておくという運用です。ヴァージニア級攻撃原潜はブロック5からVPMという1基あたりトマホーク巡航ミサイル7発が入るモジュールを4基増設するのですが、このモジュールは弾道ミサイル1発が収納可能な大きさなので、モジュールの交換で戦略原潜的な任務を担当させることが出来ます。
しかしわざわざINF条約を破棄してまで中距離弾道ミサイルを潜水艦に搭載する意味があるのか疑問が残ります。NPR2018の方針のままINF条約を維持するのと実質的な差があまり無いので、条約を破棄するというデメリットばかりが目に付きます。
もしもアメリカがINF条約の破棄について地上配備型の中距離核戦力を配備することこそが目的であり、太平洋にも適用するとした場合、配備場所によっては地域のバランスを激変させる可能性が生じるでしょう。日本に配備する場合は非核三原則の変更を迫られ激しい反対運動が起き、韓国に配備する場合は北朝鮮の非核化が失敗した状況で韓国は中国との決定的な決別を迫られ、フィリピンに配備する場合は脆弱なフィリピン軍に頼れないことからアメリカは空軍基地を含む大戦力を中距離核戦力の防備に配置しなければなりません。どれも現実的に実行できるとは思い難い大きなリスクを孕んでいます。