今年の7月の祝日が移動するのはなぜか?古来より、暦や祝日は移動・変更するものだった
デジアナリスト・手帳評論家の舘神龍彦(たてがみたつひこ)です
今年の7月の休日は移動されます。
これが内閣府から発表されたのは、昨年11月。
すでにほとんどのメーカーの手帳やカレンダーは、発売後でした。
だから、2021年版の手帳やカレンダーのほとんどには、新しい休日は反映されていないことになります。
この件に関しては、なかむら真朱氏がこの記事で触れています。この記事には手帳メーカー各社のダウンロードデータのリンクもあります。
宇宙と権力が暦を決める
このように、今年の国民の祝日は、変更されます。
さてでは、こういうことはめずらしいことなのでしょうか。
結論から言えば、そうではありません。
暦と為政者との関係については、拙著『手帳と日本人』(NHK出版新書)にも詳しく書きました。
そもそも為政者は、休日はおろか、暦そのものを自由に変えてきました。それは政治的な傾向とは無関係でした。
ローマに始まる
現在の暦の原型ができたのは、古代ローマの時代 紀元前8世紀の「ロムルス暦」でした。
ロムルス暦は1年を304日とし、春を一年のはじまりとして、1月から10月まで、残りの日は冬眠の日になっていました。31日の月が4つ、30日の月が6つです。各月はそれぞれ呼び名がありました。1月はMarutius、2月はAprilisなど4月までは当時のローマで信仰されていた神の名が、5月以降は、「5番目の月」「6番目の月」という意味の名がついていました(※)よく注意してみると、この時点の1月、2月が現在の「March」(3月),「April」(4月)と似ていることがわかります。これは後に触れるように2ヶ月分の月が先頭に追加された結果なのです。
7月をJuliusにしたユリウス暦
この暦が12ヶ月の現在の形になったのは、ロムルスの跡を継いだヌマ王によるヌマ暦でした。
11月(Januarius)、12月(Februarius)が加わりました。各月の日数は29日または31日ですが、12月のみは28日でした。ここで1年は355日としていました(※)。
ヌマ暦は紀元前153年に改暦されました。1月がJanuariusに、2月がFebruariusになり、それまで年初の月名だったMarutiusは3月になりました。
そのヌマ暦は紀元前49年、カエサルの政権掌握によって改暦されます。エジプトの数学者ソシゲネスの助言によって、1年は365日と四分の一と決めました。そして閏年は4年に1度で366日としました。
それまで「Quintilis」だった7月がユリウス・カエサルの功績をたたえる元老院によって「Jurius」と改称されました(※)。
またカエサルの後継者アウグストゥスは、8月をAugusutusにしました。
これらの度重なるローマ時代の改暦によって、今日ヨーロッパのほとんどの国で使われている現在の月名が定まりました。12ヶ月、1週間といった現在の時間単位の基礎はこのころに確立しました。
128年で1日ずれる誤差を修正したグレゴリオ暦
ユリウス暦では、1年を365.25日としていました。これは実際の一年より11分14秒長いことになります、そのため128年目には誤差の蓄積が一日になります。
このユリウス暦を修正したのが、現在も使われているグレゴリオ暦です。1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世によってなされた改革で定まりました(※6)。
その規則は、以下のようになります。すなわち、
西暦年が4で割り切れる年を閏年。
ただし、西暦年が1000で割り切れ、400で割り切れない年は閏年にしない。
閏日は2月29日。
この原則に従うと、西暦2000年は閏年。2100年は閏年になりません。
グレゴリオ暦は、イタリアを初めとするカトリック諸国ではすぐに受け入れられましたが、プロテスタント諸国(ドイツ、スイス)などでは採用が遅れました。また、ギリシア正教を国教としていたロシア帝国などでは、依然としてユリウス暦でした。カトリック教会の影響力がギリシア正教圏には強制力を持たなかったことが原因です。この例も暦の運用は、政治や宗教から逃れることができないことのひとつの現れだと言えます。
革命的すぎて定着しなかった革命暦
グレゴリオ暦が一時的に中断された国もあります。革命当時のフランスです。1789年に勃発したフランス革命では、1792年に王政を廃止。
このことがキリスト教的な秩序からの脱却につながっていきます。
1793年に決められた革命暦は、それ以前のキリスト教的な時間の数え方からがらっとかわりました。
それまでの1日24時間、1時間=60分という時間単位に対して、十進法に基づく独自の時間単位を採用したのです。1日を10時間、1時間を100分、1分を100秒としました。
週は廃止。1ヶ月を10日ごとの3旬に分け、10日、20日、30日がそれぞれ休日になりました。十二進法を基本原理とするグレゴリオ暦とは違い、十進法が基本になったのです。革命の最中のフランスでは、革命暦にあわせて生活するようになったのです。
この革命的すぎる革命暦は、ブリュメール(革命暦で“霧の月”の意)18日(1799年11月9日)のクーデター、ナポレオン・ボナパルトの蜂起によって終わります。1801年、ナポレオンはグレゴリオ暦を復活。その後ナポレオンは皇帝になります。そして革命暦は1806年に廃止されました。
為政者が暦や休日を決める
暦の細部が規定されていなかった時代には、為政者によって閏年の操作などが行われました。また暦が新たに変わったときには、それに従うことが求められました。
現在では西欧を中心とする先進国各国では、グレゴリオ暦が定着しています。人々の生活はそれに従って営まれています。その一方で日曜日は業種によっては必ずしも休日ではありません。
暦の歴史を見ると、グレゴリオ暦に至るまでの間に、それが為政者の都合によってどんどん変わってきたことがわかります。
そして、現代の人間の生活時間帯は早朝から深夜におよんでいます。休日も職種や職務形態でばらばらです。また、おもに宗教を中心とした行動原理の規定なども、緩くなっています。
このように、為政者が暦や休日を決めたり変更したりすることは、歴史を振り返れば決して珍しいことではないのです。
※『暦を知る事典』岡田芳朗、伊東和彦、後藤晶男、松井吉昭著 東京堂出版
『暦の歴史』ジャクリーヌ・ド・ブルゴワン著 創元社による