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【戦国こぼれ話】名勝負として有名な川中島の戦い。武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは虚構だったのか!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
軍配団扇を持つ武田信玄。上杉謙信の一太刀を見事に受け止めたといわれている。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

■名勝負はあったのか

 スポーツの世界にはライバル同士がしのぎを削り、名勝負を繰り広げることは珍しくない。むろん、戦国時代においても、幾多の名勝負が繰り広げられた。

 永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで、白頭巾の上杉謙信が自ら武田軍の本陣に突入し、武田信玄に一太刀浴びせ、それを信玄が軍配団扇で受け止めたという有名な名勝負の逸話がある。

 武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは、本当にあったのだろうか?

■小説『天と地と』

 現在、八幡原史跡公園(長野市)には、信玄・謙信一騎討ちのブロンズ像が建っている。まさしく川中島の戦いの名勝負を再現したものだ。

 この像は海音寺潮五郎の代表作・小説『天と地と』を原作とし、昭和44年(1969)に同じタイトルでNHK大河ドラマが放映されたのを記念して建立されたものだ。

 川中島合戦のクライマックスというべきこのエピソードには、根拠があるのだろうか。以下、史料にどう描かれているのか確認しよう。

■『甲陽軍鑑』の記述

 江戸初期に編纂された軍書『甲陽軍鑑』には「馬上から切りつける謙信の太刀を、信玄は床几から立って軍配団扇で受けとめた」と記されている。もう少し詳しく述べておこう。

 萌黄の胴肩衣姿の武将が頭を白手拭で包み、月毛の馬に乗ったままで、床几に腰掛ける信玄に斬りつけた。信玄は動揺することなく、床几から立ち上がって軍配で太刀を受け止めた。

 そして、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が馬を槍で突くと、騎馬武者はその場から走り去ったという。実は、この騎馬武者こそが上杉謙信だったというのだ。

■その他の軍記物語の記述

 一方、『甲越信戦録』には「謙信公はただ一騎で信玄公の床几の元へ乗りつけ、三尺一寸の太刀で切りつける。信玄公は床几に腰を掛けたまま軍配団扇で受け止めた」とある。記述内容は、『甲陽軍鑑』とさほど変わらない。

 しかし、『北越軍談』には「御幣川に馬を乗りいれ、川の中での太刀と太刀との一騎討ち」とあり、太刀による一騎打ちになっている。このとき信玄は手に傷を負ったというが、それは『北越軍談』が上杉方の軍記物語だからで、あえて謙信の手柄を強調したものと推測される。

■冷静に考えてみると

 重要なことであるが、信玄と謙信が一騎打ちをしたというたしかな一次史料(当時の書状など)は存在しない。すべて後世に成立した二次史料の記述ばかりである。

 通常、大将同士が一騎打ちをするというのは、ほかに類例が少ないものであり、常識的には考えにくい。また信玄に斬りつけたのは謙信ではなく、別の法師武者であったという説もある。

 二人の一騎討ちの話は、ライバル関係の信玄、謙信であれば、一騎討ちをしたに違いないと後世の人が仮託して創作した逸話にすぎないだろう。

 やがて、その逸話は広まり、先述した軍記物語に書かれているように、何パターンもの場面が創作されたものと考えられる。史実ではないのは、明白だといえるだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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